「地元の野球、スポーツ界の活性化に」元甲子園球児・小暮涼 スクールからつなげる次世代への野球と日の丸の挑戦
教育実習で感じたある疑問とは
卒業後は教員免許取得と野球を続けることを考えて八戸学院大学へと進学した。 同大学OBには秋山翔吾(広島)がおり、小暮の同級生には髙橋優貴(巨人)がいるなど野球のレベルも高い大学。 ただ、生まれも育ちも埼玉だった小暮にとって八戸は初めて足を踏み入れた地だった。 「共栄から行くのも初めてで知っている先輩もいなかったですし、しかも進学を決めるまで八戸には行ったことすらなかったです(笑)。それでも、中学卒業から寮生活も始めてどこでもやっていけるという自負はあったので、すぐ決めました」 小暮は大学でも野球を続ける一方で、在学中に当初からの目標だった教員免許も取得。描いたストーリーに沿って順調に進んでいた。 しかし、その実習の際にある疑問を抱くようになった。 「一番は指導者になることが目標でした。ただ、実習を通じて教師と指導者の両立は難しいなと感じたんです。学校の仕事も大変ですし、重きを置いている野球の指導者として成長できるのかなと思って…」 悩んだ小暮は大学の監督に相談すると「指導者になりたいのであれば大学でやるのはどうだ」という助言をもらった。 卒業後は職員として残り、大学で働きながらコーチを務めた。コーチとして指導者としてのキャリアを歩み出した小暮には、また新たな志ができていた。 それは野球スクールの運営だった。野球と出会った原点の場所であり、24時間大好きな野球と向き合いたい。そんな想いから構想を練り始めた。 ここで小暮は一つ大きな決断を下した。 「3年勤めた大学を辞めてアメリカへ行きました。指導者の勉強をしてから開講しようと思い、知り合いの伝手をたどって行きました」
1ヶ月間、選手としてアメリカに
1年間は準備期間として資金を集め、単身アメリカへ渡った。ただ、それは自身の想定と異なる形での”留学”だった。 「アメリカの独立リーグを経験してる方々から話を聞くと、『プレイヤーとして肌で感じながらアメリカの野球を知った方が勉強になる』と。僕はケガで野球を引退したわけではないですし、まだ体が動くのでそれなら挑戦しようと決めました」 小暮が参加したのは、カリフォルニアで開催されたウインターリーグ。将来MLBでのプレーを目指す約200人が参加し、世界中から夢を追いかけて来た選手たちとともに1ヶ月間共にした。 この間結成された即席のチームでは米独立リーグの監督やコーチが指揮を執り、目に留まった選手はその場で契約が決まるシステムだった。 小暮もブランクを感じさせないプレーで、興味を持ったチームもあったが契約までには至らず。 「元々は指導者の勉強のために行きましたし、1ヶ月やり切ったので帰国しました」と、いよいよ開講に向けて本格的に着手した。
【関連記事】
- Tリーグ 森薗政崇と安藤みなみの”MVPコンビ”がイベントに登場 卓球を通じたコミュニティ活性化と健康促進のきっかけに
- パラテコンドー&身体障害者野球 市川青空(そら)進化の軌跡「目の前が真っ暗になった身でも這い上がれる」大事故から世界で戦うファイターへ
- 「オレンジアーミーフェスティバル2024」クボタスピアーズ船橋・東京ベイの聖地えどりくでつくられた”夢体験”
- 身体障害者野球 日本代表選手と理学療法士が語るこれまでの歩みと今後の展望「第59回日本理学療法学術研修大会 in東京」
- 東京ヤクルトスワローズ ベースボールアカデミー 開校までの道のりと築く地域の野球活性化「大人になっても野球と長く触れ合える原点に」