アキレスは亀に追いつけない? 「円周率の日」に考える無限とパラドックス
【アリストテレスによる説明】
この考え方をすると、「アキレスと亀」はこう説明できます。 アキレスは問題なく亀に追いつきます。ゼノンは、アキレスが走り抜けた線分を切り取って点を作り出し、「アキレスがここにいたとき亀は……」と永遠に説明し続けているだけです。説明が無限に続くからと言って、アキレスが亀を追いかけるという運動が無限に続くということにはなりません。つまりこの話には何も矛盾はないのです。
【現実的無限と可能的無限】
ここで、出てきた2つの無限の解釈をまとめてみます。 “無限個の点が集まって線ができている”というような、「無限が完結したものとして存在する」という考えを現実的無限といいます。 対して、アリストテレスが考えたのは、「無限は完結しない。あるのは際限なく続けられるという可能性だけだ」という考えです。可能的無限といいます。 別の例で補足しましょう。円周率の日にちなんだ記事なので、円周率に当てはめて考えてみます。 円周率も「3.1415……」と無限に続くわけですが、現実的無限と可能的無限ではどう解釈するのでしょうか。 まず現実的無限ですが、こっちは無限を完結した存在として認めるので、円周率は一つの確定した値ということになります。対して可能的無限では、無限が完結するとは認めないので、円周率は永遠に完結しません。つまり円周率は確定した値ではないということになります。 例え話をすると、お料理番組で、作っている途中で「出来たものがここにあります」と完成品を出してくることがありますね。それと同じで、円周率に無限に数が続くのを承知の上で、「出来たものがここにあります」という扱いをしていいのが現実的無限。「いやいや、無限はいつまでも終わらないんだから、”出来たもの”なんてありえないでしょ」とするのが可能的無限です。 みなさんはどっちがしっくり来ますか?
パラドックスが数学を発展させてきた
ここまで読まれた方は、こう思うかもしれません。現実的無限はパラドックスを生む原因だった。ということは可能的無限のほうが解釈としては正しくて、現代の哲学者や数学者たちはみんなそっちだと……。 実はそうではありません。アリストテレスの説明で「アキレスと亀」が完全解決したかというと、それはまだ議論がありますし、現代数学でいう無限は基本的に現実的無限の方です。数学が「線は無限個の点の集まり」だと考えるのはそのためです。円周率をπで表すのも、完結した状態として扱っているからです。 ただ、現実的無限にパラドックスを引き起こす危険性があるのも確かです。実際、数学には次々とパラドックスが発見されていきました。中には数学の根幹を揺るがすような重大なものもありました。 そこで数学者たちは、数学基礎論という分野を作り出し、公理系などといった数学のルールに少しずつ改良を重ねることで、パラドックスが起こらないような学問体系をつくってきました。パラドックスは、私たちに「無限とは何か?」という根本的な問いを投げかけ、それに応えることで、数学はより厳密な学問として発展してきたのです。 そう考えると、パラドックスというものは、意外と奥深い話だなぁという気がしてきませんか?パラドックスは頭の体操とか面白雑学みたいに紹介されることが多い気がしますが、私はもっと重要な意味があると思うのです。