荻野アンナ「母娘、愛と憎しみは背中合わせ。共依存に苦しみながら看取った今も絆は続く」
2015年1月、画家の母・江見絹子さんを看取った荻野アンナさん。強い絆で結ばれていると認識しながらも、娘を自分の「作品」だと思っている母親に対して、戸惑いも覚えたと言います。別れから時を経た今、改めて思いを聞いてみると――(構成:丸山あかね 撮影:本社・武田裕介) 【写真】荻野アンナさん「母と別の道に進むことによって、私は救済された。母の望み通り彼と別れていたら、作家として成立しなかったとも思います」 * * * * * * * ◆「一卵性母娘」の家庭で育って 母が他界してもうすぐ10年になりますが、今も私は母と一緒に生きているような気がします。「こんなとき、母ならどう言うだろう?」と思えば母の言葉が聞こえてくるし、ふと気配を感じることもあるのです。 私たちは、いわば共依存関係にある「一卵性母娘」でした。それがいいとか悪いとか論じる気はありません。そもそも母と娘のありように正解などないでしょう。とはいえ、私が母との関係性に戸惑い、生きづらさを覚えていたのは確かです。 私は一人っ子で、船乗りだった父は家にいないことが多かった。こう言うと、だから母と娘の関係性が濃くなったのねと思われがちですが、私が幼い頃の母は、日本における抽象画ブームの先駆者として創作活動に追われていました。 私の面倒を見てくれたのは、娘の力になりたいと関西から駆けつけた祖母。気づけば父の存在感は希薄になり、母が父親的存在、祖母が母親的存在という奇妙な家庭環境が構築されていたのです。 今にして思えば、母と祖母もまた一卵性母娘でした。祖母の分身として育てられた母は、ごく当たり前のように私を自分の分身として育て上げました。わが子を愛するとはこういうことだ、と疑いもせず。
◆30代で迎えた反抗期 母は美意識の高い完璧主義者でした。私が中学生になった頃には創作活動が少し落ち着いて、絵を描く以外の時間を家事に充てるようになったのですが、非の打ちどころがなくて。 たとえばお弁当は、彩り豊かで栄養バランスも計算された《完璧弁当》。おまけに私は学校で「お弁当を3つ持ってくるアンナ」と有名だったのです(笑)。早弁用のサンドイッチ、お昼用にはお弁当箱の一つにご飯、もう一つにおかずがぎっしり。フルーツは皮を剥いた状態で保存容器に並べられていました。 当時、「ママの欠点って何?」と尋ねてみたことがあります。すると母は、少し考えてから「正直すぎることやね」と答えました。正直なのはいいことだと考えていた私は、欠点のない母には敵わない、と完全に打ちのめされてしまった。それ以降、私の中に「すべての価値基準は母である」という思いが居座るようになったのです。 その頃の私にとって、母は父性の人であり、母性の人であり、絵や本についての感想を語り合う姉妹や親友のような存在。 いつしか私は祖母から離れ、母と二人だけの世界を好むようになるのですが、このことを巡って祖母と母に確執が生まれ、諍いは数年間にも及びました。寄木細工のようにみっちりと組まれた母と私の間には、誰も入り込むことができなかったのです。
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