日本発祥の芸術品「スカジャン」の魅力とテーラー東洋の想い
鷲や虎、龍などの絵柄が、緻密な刺繍で背中一面に施された衣服。いわゆる「スカジャン」と呼ばれる洋服の魅力はどこにあるのか。威圧的なイメージを持っている人も多いかもしれないが、その刺繍を間近で見てみると、非常に精細で職人の技術力の高さが窺える。絵柄も躍動感があり、絵画ではないかと思うほどだ。 そこで今回、「スカジャン」を戦後まもない1940年代から米軍の基地内に納品していたテーラー東洋(東洋エンタープライズ株式会社)の企画統括で、スカジャン研究家でもある松山達朗さんにお話を伺った。 「スカジャン」はどのようにして生まれ、ファッションアイテムのひとつになったのだろうか。そこには文化の一巡という興味深い歴史があった。
ー前身の港商商会では、どのような活動を行っていましたか。 戦後、多くの米兵が進駐軍として日本に駐留していました。銀座界隈には連合国最高司令官総司令部(GHQ)の本部があり、デパートが接収されて「TOKYO PX」として米軍関係者に向けた商売が盛んになっていきます。 すると、米兵に土産物として着物や雛人形などを売る人が出てきて、自然と露店街が形成されました。それにより、銀座は米兵相手の商売の中心地として知られるようになります。 そんななか、東洋エンタープライズ株式会社の前身である港商商会の社員が、米兵に馴染み深いベースボールジャケットを模した上着に和装刺繍を入れて、土産物として売り始めました。現在ではスカジャンと呼ばれているその「スーベニアジャケット」は米兵の間でまたたく間に人気を博し、それを米軍関係者が聞きつけ、PX(基地内にある売店)への納品を任されるようになったようです。1950年代の最盛期には納入シェアの95%を港商商会が占めていました。 ー「スカジャン」と聞くと、横須賀を思い浮かべる人も多いと思います。 実はこの刺繍入りジャケットが「スカジャン」と呼ばれるようになったのは1960年代以降で、それ以前の納品伝票を見ると「スーベニアジャケット」や「ジャパンジャケット」という名称で取引されていました。 戦後まもなく誕生したスーベニアジャケットはその名の通り米兵向けの土産物。日本人が着るようになったのは1960年代に入ってからで、アメリカに憧れを持つ若者を中心にファッションとして広まります。 銀座の接収は1950年代に解除され、東京の若者はスーベニアジャケットを求めて米軍基地のある横須賀へと繰り出していました。横須賀には「ドブ板通り」という米兵相手に土産物を売って栄えたストリートがあり、屈強な兵士たちが英語で会話しているなか、勇気をだしてジャンパーを買って帰るのです。 そこから横須賀ジャンパーを略して「スカジャン」と呼ばれるようになります。このような名前の由来のために、横須賀が連想されるのでしょうね。