キンシャサの奇跡を見た取材記者のアリの真実
モハメド・アリの姿を間近に見たのは、ちょうど20年前だ。アトランタ五輪のメインスタジアム。事前に秘密にされていた最終聖火ランナーとして、震える手でトーチを持ったTシャツ姿のモハメド・アリが現れた瞬間、「ウォー」という大歓声と共に人々は立ち上がった。アリは無表情のまま、競泳のスター、エバンスから聖火を受け継ぐ。その手はずっと震えていた。 アメリカのスポーツ界だけでなく、文化、時代の象徴……それがアリだった。 伝説のカリスマ、モハメド・アリが、この世を去った。74歳だった。 エキシビションマッチを戦ったアントニオ猪木の記者会見ではなく、一人の目撃者の話を聞いた。 1974年10月30日。ザイール(現コンゴ)のキンシャサで行われたジョージ・フォアマンとのWBA、WBC世界ヘビー級タイトルマッチ。アリが実に7年ぶりに王座復帰した通称“キンシャサの奇跡”と呼ばれる試合だ。当時、専門誌のボクシングマガジンの編集部にいた、現ボクシングビート編集部の前田衷さん(67)は、この現場に取材記者として足を運んだ日本人証言者の数少ない一人。日本から来たマスコミは放映権を確保していたテレビ朝日の関係者を含めた4人だけだったという。 「生き残りですよ」 当初、スポーツライターの故・佐瀬稔氏が取材予定だったが、現地入りした途端、チャンピオンのジョージ・フォアマンが、スパーリング中に目をカット。試合は1か月以上、延期になった。そこで代役として取材チャンスが巡ってきたのが、前田さんだった。アリ関連のムック本などを数冊編集して、自称、日本一のアリウォッチャーだった“マエチュー”さんに、これまでも何度か、お茶や梅酒を飲みながら“キンシャサの奇跡”の話を聞かせてもらってきた。 「アリの最後の姿を見届けようとキンシャサに行った。徴兵を拒否したため、タイトルを剥奪され3年7か月のブランクを作ったアリは、もう今までの蝶のように舞い、蜂のように刺す、打たせず打つボクシングはできていなかった。そこまで一度としてKO負けを拒否していたアリだが、最後にKO負けするだろうと思っていた。それは私だけでなく、ボクシング関係者の誰もが、そう思っていた」 徴兵を拒否したアリは、1967年3月の試合を最後に王座を剥奪されてボクシング界から干された。3年7か月のブランクを経て、1971年にはジョー・フレイジャーのベルトに挑戦したが、最終回にダウン、執念で立ち上がりKO負けは拒否したが、判定負けを喫した。それでも再起を期すが、1973年には、ケン・ノートンに生涯2敗目、判定だったが試合後コーナーから立てずに顎を折られた。「アリは終わった」と評された。 だが、アリはあきらめずケン・ノートンを再戦で下し、3年越しのリターンマッチとなったジョー・フレージャーも下して、ザイールの独裁者が国家事業として企画したキンシャサでの世界挑戦が実現したのだ。