実は仕事も忙しかった平安貴族 年3日しか休めない下級官人も
年間3日しか休めない(休まない)
身分の低い官人たちも公卿と同じような仕事ぶりですか 下級官人の勤務時間も、基本的には公卿たちとそれほど大差はありませんでした。政務や行事に備え、午前から出仕し、夕刻に退出。月に何度かは深夜遅くまで勤務というのが一般的だったようです。ただし、準備や後片付けがあるぶん、公卿たちより早く出勤することが必要で、帰りもより遅くなったと思われます。 ポストや能力、意欲によって仕事の忙しさに差があるのは古今東西同じですが、いずれ叙爵(じょしゃく)して五位の位を得て貴族の仲間入りすることが約束された蔵人、太政官の文書関係の事務や記録を務める大外記(だいげき)、少外記(しょうげき)や大史(だいし)、少史(しょうし)などのポストはすさまじい激務でした。 平安時代の政務運営に関する事例をまとめた『政事要略』から、村上天皇の天暦4(950)年8月~天暦5(951)年7月の貴族たちの勤務日数を見てみると、公卿たちの多くは200日以下の出勤ですが、六位の位を持つ外記や史は300日以上勤務している者が少なくありません。なかでも少外記の紀理綱(きのまさつな)は351日勤務しています。当時の暦では1年は354~355日だったので、年間3日しか休んでいないことになります。この仕事ぶりが認められたのかどうかは分かりませんが、理綱は2年後の天暦7(953)年に従五位下・三河守となり、貴族の仲間入りをしたことが確認されています。 ●評価は高い、でも出世しない 働いたら出世が約束されるものなのでしょうか? 平安貴族たちの中で、無位や六位以下の位階にしか進むことができない(=諸大夫層になれない)侍身分の官人たちは、出世は極めて難しいのが現実でした。同じ六位の位を持つ人でも、貴族の仲間入りをするステップとしての官職もあれば、出世どころか、異動すらないこともあります。 太政官の下級職員の官掌(かじょう)を40年務めた狛光経(こまのみつつね)のように、数十年もの間、同じポストにとどまっていた例もあります。しかし、出世しない、同じポストにとどまっているから、その人が働いていないとか、評価が低いというわけではありません。むしろその逆で、様々な経験を積み上げ、先例や故実をよく知っている人物として重視され、高い評価を受けています。光経が亡くなったときに、右大臣の中御門宗忠は「官掌となってから40年に及ぶ。官中の要人なり」と賛辞を贈り、その死を悼んでいます。平安絵巻を彩る道長や実資など上級貴族の活躍を、光経たちのような下級官人たちが支えていたのです。 ●平安貴族たちの仕事がよく分かる!井上氏お薦めの3冊 公卿会議―論戦する宮廷貴族たち(美川 圭/中公新書) 律令制の導入以降、国政の重要事項については公卿たちが会議を行って方針を決めた。日本の合意形成プロセスの原型ともいえる公卿会議の変遷をたどった一冊。 平安京の下級官人(倉本一宏/講談社現代新書) 長年昇進を望みながらかなわなかった下級官人。宮廷を襲った疫病。闘乱に明け暮れる人々…。『御堂関白記』や『権記』などの古記録から平安京の実務を行った下級官人の姿や当時の社会の息吹を伝える。 摂関政治から院政へ 京都の中世史 1(美川圭、佐古愛己、辻浩和著/吉川弘文館) 摂関時代から11世紀後半に始まる院政期にかけて、政務のしくみや運営方法・財源などの変化を政治権力の転変ととも描く。都市域が拡大し、平安京が〝京都〟へ変貌する様子がよく分かる。 取材・文/市川史樹(日経BOOKプラス編集部) 写真/山本尚侍