実は仕事も忙しかった平安貴族 年3日しか休めない下級官人も
行事以外の会議や政治はどのように行われていたのですか? 行事のほか、陣定(じんのさだめ)、外記政(げきせい)、陣申文(じんのもうしぶみ)など日々の政務も行われていました。陣定は公卿の会議で、蔵人頭(くろうどのとう)が議題や関連書類を示し、参加した公卿が一人ひとり意見を述べます(蔵人頭については「紫式部と道長の家の違いは? 平安貴族が奮闘した出世の「壁」」を参照)。『光る君へ』でも、しばしば陣定の場面が出てきますが、通常は下位の公卿から順に発言することになっていました。会議の内容は参加者のうち実務能力に優れた参議が、誰と誰はこういう意見、この人はこういう意見と定文(さだめぶみ)という文書にまとめ、蔵人頭を通じて、天皇や摂政・関白に奏上します。当時は多数決という概念はないので、全員一致の意見が通らないこともありましたが、公卿たちの意見はまずまず尊重されていたようです。摂関政治の時代ではありますが、摂政・関白がすべてを決めていたわけではありません。 外記政は諸国や様々な役所から提出された書類(申文=もうしぶみ)を読み、決裁する政務です。道長の時代には回数がやや減り、参加者もそれほど多くありませんでしたが、それでも月に数日は行われていました。比較的回数が多いのは、陣申文です。 行事や陣定、外記政などの政務はそれぞれ上卿(しょうけい)という責任者としてリーダーシップをとる公卿がいます。準備を含め長期間にわたる行事や大きなイベントは事前に担当者が決められていました。ただし、摂政・関白は天皇の補佐・代理人なので、上卿を務めることはありません。 行事や政務によっては、その日の参加者のうち最も地位の高い人物が上卿を務めることもあります。宮中の官職では「左」が上位なので、左大臣が出席していれば左大臣が、左大臣が欠席している場合は右大臣が、左大臣も右大臣も不参加のときは内大臣がやりました。上卿は基本的に大納言以上が担当します。外記政やそれほど大きくない行事では中納言がやることもありますが、公卿の末席である参議はできません。 公卿たちは真面目に参加して仕事をしていたのですか? 自分が責任者として任されたものや、大きな行事を除くと、公卿たちの出席率は様々でした。自分にとって都合が良くない、あるいは上卿を任された公卿が実力者ではなくて見くびられている場合などは、欠席者が続出して会議が延期になることも珍しくありませんでした。 藤原道長より20歳以上年長のいとこ(父・兼家の兄である兼通の長男)の藤原顕光(あきみつ)は家柄がとても良く、左大臣を長く務めましたが、儀式などでも失態を繰り返し、「無能の人」という評価が定着していました。道長はもちろん、他の公卿からも軽んじられており、彼が上卿を担当する行事や会議は欠席者が多く出ました。評価が低く、最高実力者であった道長からも疎まれていた顕光とは親しい仲間と見られたくないと思ったのでしょう。顕光の娘婿であった敦明親王(小一条院)も、後に道長の三女・寛子のもとへ去っています。 ●月に数回は深夜残業も 平安貴族はどんなスケジュールで仕事をしていたのでしょうか? 奈良時代、律令国家が成立した頃、政治は朝早くから行われるものでした。だからこそ「朝廷」であり、「朝堂院」が政務の場でした。しかし、平安時代半ばになると、仕事は午後から夜が中心になります。 古くからの伝統的な政務である外記政は午前中に行われることが多かったのですが、回数もそれほど多くはなく、身分の高い公卿は、午後に陣定などが行われる近衛府の詰め所「陣座(じんのざ)」に出勤、夕方の酉の刻(とりのこく=午後6時の前後2時間)ごろに退出するのが一般的だったようですが、夜遅くまでかかることも少なくありませんでした。 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、村上天皇(円融天皇、冷泉天皇の父。一条天皇、花山天皇などの祖父)が、下級官人から「本来は日中に終わらなければならない公事(政務)が、夜遅くまでかかっているため、松明(たいまつ)が多く消費されている」と指摘されたという説話が残っています。 実資の『小右記』には丑の刻(うしのこく=午前2時の前後2時間)、亥の終刻(午後11時半ごろ)に退出したという記述があります。月に何度かは深夜まで「残業」を余儀なくされていたようです。