明智光秀は「本能寺の変」で本能寺に行かなかったことが判明!古い書物が記した光秀の所在地とは⁉
■明智光秀は鳥羽に本陣を置いて戦局をうかがっていたのか これまで、本能寺の変においては、明智光秀が本能寺にいたと考えられてきたが、最近、これを否定する説が出された。江戸時代に加賀藩の兵学者・関屋政春が500ほどの武辺話を集めた『乙夜之書物』に「本能寺エハ明知(智)弥平次・斎藤内蔵、人数弐千余キ(騎)指ムケ、光秀は鳥羽ニヒカエタリ」と記されていたためである。鳥羽は本能寺から6㎞以上も南方に位置しており、これが事実とすると、光秀は本能寺にいなかったこと になる。 一般的に、後世に編纂された記録は2次史料といい、同時代に記された1次史料よりも文献としての価値は低くみられている。文中の記載によれば、「本能寺の変」に関する武辺話は、光秀の重臣・斎藤利三の3男で「本能寺の変」にも参加した斎藤利宗が甥にあたる加賀藩士の井上清左衛門に語ったものを、著者の関屋政春が聞き書きしたものという。2次史料であることから史料の信ぴょう性に否定的な見解も多いが、内容を読む限り、脚色や潤色もない。なにより、ほかの記述内容は、『信長公記』など同時代の史料とも合致する。 通説との違いは、光秀のいた場所だけということになるが、実は、これが大きな問題である。光秀の究極的な目標は、信長を確実に討ち取ることにあったわけだから、仮に鳥羽にいたのであるとすれば、下京を完全に包囲しなければならない。本能寺を囲むよりも壮大な計画となるわけで、光秀の戦略についても再考が迫られる。この『乙夜之書物』の内容は、今後、本能寺の変における光秀の戦略を見直すきっかけとなるだろう。 監修・文/小和田泰経 歴史人2024年12月号『織田信長と本能寺の変』より
歴史人編集部