アルファロメオではないアルファロメオ?夢から生まれた唯一無二の車
ここに、アルファロメオではないアルファロメオがある。6C 2500 SSリーヴァ"セレニッシマ”ベルリネッタは、先見の明が生んだユニークな1台だ。 【画像】思わず息を飲むほど美しい、6C 2500 SSリーヴァ"セレニッシマ”ベルリネッタのスタイリング(写真10点) ーーー いま私の前にあるのは、唯一無二の1台、1950年アルファロメオ6C 2500 SSリーヴァ・“セレニッシマ”ベルリネッタである。 それは、この車の製作に関わった人々の情熱、技術、先見の明が完璧に組み合わされた作品だ。“セレニッシマ”はイタリア語で“晴期極まる”という意味で、かつてのヴェネツィア共和国の呼称でもあった。よほど特別な車でもない限り似合わない名前だが、これはまさに特別な1台だ。歴史をひもとけば、夢やプランはたくさん見つかる。では、先見の明はどうだろう。その持ち主が、会社の創業者よりそこで働く技術者の中に多かったのは、けっして偶然ではないはずだ。ただし、自動車の黎明期に最も先見の明があったのは、何といってもカスタマーだった。 ●知識と才能と能力に恵まれた多芸多才な人々 6C 2500 SSリーヴァ・"セレニッシマ”は、イタリアのモータースポーツ史上には欠かせない重要人物であるジョヴァンニ・ルラー二伯爵、エンジニアのグイド・カッターネオと手仕事の匠だったリーヴァ兄弟の優れた技術と能力によって誕生した。3者とも、それぞれを主役にするだけの価値がある人々だが、今回は簡単な紹介に留めておこう。 グイド・カッターネオは、1905年、パドヴァ県アバーノに生まれた。父親のジュスティノ・カッターネオもエンジニアで、1902年からイソッタ・フラスキーニの技術責任者を務めていた。グイドはその才能を受け継ぎ、刺激的な環境の中で育った。父親が率いた人々は、第二次世界大戦前のイタリアに、航空・船舶の分野で数多くの成功をもたらした技術者だった。グイドは、自動車レースに出走して好成續を収めただけでなく、ボートレースでは自ら開発したボート"アッソ”で世界タイトルをつかんだ。 このボートは、"ディディ”・トロッシ伯爵が所有するカンティエリ・バリエットという会社で製造され、800kgカテゴリーに参戦した。動力源はスーパーチャージャーを装着したイソッタ・フラスキーニ製12リッターの6気筒エンジンで、500bhpを発揮。軽量な単座の木製レーシングボートに搭載された。 最高速度は150km/hに達したが、これは1930年代には前代未聞の水上スピードだった。このボートから得られた教訓は、第二次世界大戦中にイタリア海軍が使った高速船に生かされた。それを製造したのは、ジュスティノとグイド親子が1936年に創業したCABIカッターネオ社で、同社は現在も機械分野で世界屈指の先進技術を誇ると評価されている。 グイド・カッターネオが生み出したものの中に、このリーヴァ"セレニッシマ” のチューブラーシャシーもあった。カッターネオが目指したのは、軽量かつ高剛性の構造体だった。大径の鍋管をサイドメンバーに使い、フロントはカーブさせて高さを抑え、そこに2本のクロスメンバーを横に渡し、さらにX形に交差させたクロスメンバーで補強を加えた。 サスペンションはアルファロメオの設計に倣い、前後とも独立式で横置きリーフスプリングとした。ホイールベースは2560mmで、標準の6C 2500 SSより140mm短い。 新品のエンジンを戦争の余剰品から調達した。これは自身の会社が製造する高速船に搭載する予定だったものだ。2.5リッターのアルファロメオ直列6気筒エンジンは、伝統的な搭載位置であるフロントアクスル後方、現代的にいえばフロントミドに搭載され、それ専用のトランスミッションと組み合わされた。ほかのメカニカルコンポーネントは、すべて6Cのものだ。シャシーの製造はジルベルト・コロンボが率いる”GILCO社”が行った。当時、最高の技術を誇ると考えられていた会社だ。 ジョニー・ルラーニこと、カルヴェンツァーノ伯爵8世ジョヴァンニ・ルラーニ・チェルヌスキは、ミラン近郊のチェルヌスコ・ロンバルドーレで1905年に生まれた。ミラノエ科大学で工学を学び、卒業後はレーシングドライバーとなった。出走したレースは、ミッレミリア11回(クラス優勝3回)、タルガフローリオ4回、ル・マン2回(クラス優勝1回)に上る。 1935年、ルラーニは速度記録車”ニッビオ”を構想・設計。モトグッツィの500ccエンジンを搭載し、ボディはカロッツェリア・リーヴァで製造した(訳註:最高速度 162 km/hに達し、100mphの壁を破った最初の500cc車となった)。このマシンは現在も子孫が所有しており、2017年にはヴィラ・デステでコッパ・ドーロに輝いている。 ルラーニが自動車界に与えた影響は、これだけに留まらない。1937年にはレースチームのスクーデリア・アンブロジアーナを設立。ドライバーには、ルイジ・ヴィロレージ、エウジェニオ・ミネッティ、フランコ・コルテーゼがいた。コルテーゼは幅広いレースキャリアを築いたが、1947年に最初のフェラーリでレースに出走し、初戦からわずか2週間後の5月25日に、フェラーリに初勝利をもたらした人物として歴史に名を刻んでいる。 さらにルラーニは、自動車雑誌「Auto Italiana』を創刊・発行・編集し、ミラノ自動車クラブの副会長となったほか、1950~80年代にはアウトドローモ・ディ・モンツァのオーナーを務めた。また、1949年にGTというレースカテゴリーを創設し、1959年にフォーミュラ・ジュニアを立ち上げた。 ●カロッツェリア・リーヴァ ルラーニは1980年4月に、この6C 2500 SSの当時のオーナーに送った手紙の中で、カッターネオからコーチビルダーを推薦してほしいと頼まれて、自宅近くのカロッツェリア・リーヴァの名前を挙げたと回想している。さらにルラーニはプロジェクトに手を貸すことも申し出たという。これほどの人物の手を借りられるなら、誰でも幸運に感謝して、ありがたく受け入れるだろう。 カロッツェリア・リーヴァは、ミラノ近郊のメラーテ村にあった。1830~40年頃に、ジョヴァンニ・リーヴァが鍛治屋として創業し、地域の農作業で使う車輪や車を製造。やがて木工の技術も習得し、木製のスポークに鉄製のリムを貼る仕事も始めた。1859年に店はファブリカ・ディ・カロッツェ・アニチェト・リーヴァとなり、息子のアニチェトと共に馬車を製造した。 「のちに名前は"プレミアータ・ファブリカ・ディ・カロッツェ”になりました。"プレミアータ”を付けるのは、受賞歴があったり重要な一族の仕事を任されたりしている会社だと知らせるイタリア流の方法です」こう説明してくれたのは、先祖を誇りに思うエンジニアのルッジェロ・リーヴァだ。 「この地域は、ミラノのとくに裕福な人々が大勢訪れる夏の保養地で、豪壮な別荘がありました。今なら、トスカーナの屋敷にあるのはクラシックのランドローバーや古いフィアット・パンダなどですが、当時は馬車で、その多くが非常に洗練されていました」 自動車が登場すると、リーヴァ家は車のボディ製造に軸足を移した。ルッジェロはこう続ける。「アニチェトの息子で、一族が誇る芸術家のヴェヌスト・リーヴァが描いた図面が今も残っています。当時、最も有力だったイターラやフィアット、ランチアなどのシャシーに架装するボディを描いたものです。主に高級セダンやオープンスポーツカーなどを製造しており、やがてミッレミリアに出走するバルケッタも手がけるようになりました。すべて内製で、30人ほどの職人が、板金から溶接、ウッドワーク、内装まで、日常的に行っていました。間違っても静かではありませんでしたよ。私は子どもの頃から作業場の上に住んでいたので、勉強中も作業の音に耳をけていたのを覚えています。祖父も、父も、戦後は叔父も、家族全員がそこで働き、誰もが仕事を愛していました」 忘れられない特別な思い出もある。「ニッビオを納車したときに、ルラーニ伯爵と従業員全員で撮った写真が残っています。6C 2500 SS”セレニッシマ”の製造も覚えていますよ。作業場の広い壁に紙を何枚も貼り付けて、そこに実物大で外観が描かれました。ルラーニ伯爵が変更点を提案する傍らで、ボディパネルを叩き、鉄製の治具で確認していました。詳細な設計図などはなく、合金製ボディのディテールは、目で見て調整していたのです。カッターネオの友人だった実業家のために造られました。車高が低く流麗で、実に美しい車でした」