【ラグリパWest】小ささは武器。恩田慶吾 [摂南大学ラグビー部/NO8]
170から168となり、165に落ち着く。その変遷は大学写真名鑑、ホームページ、当日のメンバー表をたどった結果である。 恩田慶吾(おんだ・けいご)の身長は伸びるものではないようだ。縮んでいる。 「ギリ、165センチあります」 摂南の3年生NO8の片方の口角は少し上がる。鼻筋は通る。意志の強さが浮かぶ。 盛る必要はもうない。小さくてもやれる。9月29日の京産大戦では前半9、13分と連続して対面のシオネ・ポルテレの足首に飛び込み、なぎ倒す突進を阻止した。 「おんちゃーん!」 感動はその愛称への叫びに変わった。スタンド観戦の仲間たちからである。 ポルテレとは19センチと30キロの差がある。恩田の体重は82キロ。恐れ知らずの恩田を松下忠樹(ただき)は評する。S東京ベイのチームマネージャー兼採用である。 「バチっと止めますよね」 恩田のお気に入りのプーマ社製スパイクの鮮やかな黄色はその動きに沿って見るものの視覚に残る。<蝶のように舞い、蜂のように刺す>である。 「僕は体の小さいことは武器だと思っています。低いプレーができるからです。タックルやジャッカルやサポートなど、小さいからこそできることはたくさんあります」 関西リーグが開幕したのは9月22日、摂南は天理と戦い、7-22で敗れた。この試合も恩田はNO8で先発した。NO8はFWにおける攻守の要であり、基本的には突破力のある外国人留学生が起用される。その流れの中で、4年ぶりに国産の恩田が開幕先発をつかむ。2020年の高田航希以来となった。 天理戦での恩田のタックル回数はチーム1の18回。失敗は2回とほぼ9割の成功率を残した。ポルテレへの地をはう強いタックルのみならず、スタミナも豊富だ。 2試合連続の先発となった京産大戦は28-67。開幕連敗を味わう。 「フィジカル、セットプレーでやられました」 ポルテレに刺さったことは話題にしない。個人的成功よりもチームの勝利である。 恩田をFLではなく、NO8で起用する理由がある。監督の瀬川智広は話す。 「アタックセンスがそこそこあるので、自由にさせた方がいいと思っています」 8年前、男子7人制日本代表を率いてリオ五輪で4位入賞を果たした。その瀬川の学生に向ける「そこそこ」はほめ言葉である。 恩田は開幕2戦で、チームが記録した5トライに直接的には絡んではいない。瀬川の話す「アタックセンス」が今後の試合で発揮されれば、すでに見せつけているディフェンスとあいまって、無双になる。 恩田が摂南でポジションをつかんだのはこの3年秋からだ。入学時はHO。1年時はリザーブとしてリーグ戦7試合中4試合に名を連ねる。その12月、右の十字じん帯を断裂。復帰まで8か月を要した。ひざの負担軽減のため、復帰後は直接スクラムを組まないNO8に移る。2年時の公式戦出場はない。 今年はその右ひざの半月板の切除手術を受けた。2か月ほどチーム練習から離れ、6月の中ごろに復帰した。その状況からのポジション奪取である。 練習後に「摂南めし」と呼ばれる主菜が2つつく栄養満点のチーム提供の夕食を食べて、アフターとしてウエイトトレに励んだ 「後輩3、4人とやっています」 1年時に大けがをしたこともあり、バーベルには親しみがある。ベンチプレスの最大は140キロを差し上げる。 摂南への進学はチャレンジだった。 「Aリーグでやってみたいと思いました」 中高は滋賀学園。高校は野球部が今夏の甲子園に出場。初めて8強入りを決めた。そのアルプススタンドでの応援ダンスがSNSなどでバズり、校名は全国区になった。 ラグビー部の恩田は全国大会の出場経験はないにも関わらず、推薦入学を許された。 「3年の時はキャプテンを任されていました。根性はありますよ」 瀬川にとってはそこも評価対象だった。 根性は遺伝かもしれない。恩田の父・貴司は八幡工のFBだった。当時の監督は岩出雅之。岩出は滋賀の高校から帝京に移り、一代で歴代3位となる大学選手権優勝12回を成し遂げた。監督から顧問としてさらにその上乗せを狙う。父はその指導を練り上げる初期のころの教え子だった。猛練習を耐えた血が息子に降りてきていても何の不思議もない。 その父に連れられて米原ラグビースクールに入ったのは小1だった。小学校時代をこのスクールで過ごし、中高はラグビー部があるという理由で滋賀学園に入学している。 その競技を始めて15年目に入った。来年は最終学年の4年生。就職も気になる。 「リーグワンでなくとも、ラグビーを続けていけたらいいなあ、と思っています」 その希望の中で連敗を喫して、目標とする初の「関西制覇」は難しくなった。 「ここから頑張ります」 恩田はまだまだくじけていない。 摂南の関西リーグにおける最高位は2009年の3位。大学選手権はその年度も含めて2回出場している。最高位は8強進出。45回大会(2008年度)は帝京に7-55だった。創部は開学の翌年、1976年(昭和51)である。10年後、日本代表のバックローとしてキャップ10を得た河瀬泰治が監督に就任する。強化が始まった。体育学の教授で総監督になった河瀬は、瀬川を准教授として招き入れた。 恩田が入学してからの2年間の関西リーグは入替戦出場の7位である。この青系ジャージーの低迷打破の先頭に、小さき者は立ちたい。この秋、新しい歴史を作れれば、恩田自身の未来も明るいものになってくる。 (文:鎮 勝也)