「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(5)~ストーリーにこだわる文化と年月日にこだわる文化~ 東アジア文化編
東アジアにおける「記事」のアーキタイプ(元型)
では肝心の『春秋』の本文はどのように書かれているか。『春秋』の冒頭は次のように始まる。即位紀年と月を記し、その下に出来事を記す編年体形式である。これが、東アジア型歴史叙述の元型である。ここでは、まず最初に、年月日が中心の叙述形式を紹介したい。以下、本文である。 隠公 元年春王正月 三月公及■(朱におおざと)儀父盟于蔑 夏五月鄭伯克段于■(「正」の下に「鳥の下半分」、右側におおざと) 秋七月天王使宰■(口へんに亘)来帰恵公仲子之■(貝へんに冒) 九月及宋人盟于宿 冬十有二月祭伯来 公子益師卒 これではあまりに簡明であるので理解が難しい。そこで注釈書の出番となる。その一つである『春秋左氏伝』は次のように解説する。以下では最初の2行を紹介し、併せて書き下し文と現代語訳を紹介する。 隠公 元年、春、王周正月、不書即位、摂也。 三月、公及■儀父盟于蔑、■子克也、未王命、故不書爵、曰儀父、貴之也、公摂位、而欲求好於■、故為蔑之盟。(■はすべて朱におおざと) (書き下し文) 元年、春、王周の正月。即位を書せざるは、摂なればなり。 3月、公、■の儀父と蔑に盟ふとは、■子克なり。未だ王命あらず、故に爵を書せず。儀父と曰ふは、之を貴びたるなり。公、位を摂して好みを■に求めんと欲す。故に、蔑の盟ひを為す。(■はすべて朱におおざと) (現代語訳) 元年春王の正月とある正月は、周暦の正月で、隠公(いんこう)が即位したことを記載していないのは、かりに一時君位についたからである。 3月に隠公が■(ちゆ)の儀父(ぎほ)と蔑(べつ)に盟ったというのは、■の、名は克(こく)という君と盟ったのである。克は、まだ周王から命ぜられて正式の諸侯となっていなかったので、爵位(子爵)を記載しなかったのである。儀父と字を称しているのは、隠公の求めに応じて、魯(ろ)と盟ったことを貴んだのである。隠公は君位について■と友好関係を結ぼうと考えたので、■と蔑で盟いを結んだのである。(■はすべて朱におおざと)(鎌田正著『春秋左氏伝 1』(新釈漢文大系30)、45~48ページ、明治書院、1971年) 年月日を記すことが記事の根幹であることは、東アジア文化の2000年を超える伝統になっている。だから、東アジア諸国においては、歴史は大変重要視されたのである。西洋では歴史はそれほど重要ではなく、中世以来の学問分類である「自由七科」の中にすら科目として入っていない。