水俣病支援に”新世代”の光 旗に「怨」の文字掲げデモした時代から変わる支援のあり方、若者が共感抱くきっかけに
「怨」旗かかげ 水俣病を闘った1970年代の「支援者」
水俣病といえば「怨」の文字が大書された旗を先頭にデモや座り込みをする映像を思い浮かべる人も多いだろう。それは1970年代の若者──水俣病の公式確認前後に生を受けた世代の共感を呼んだ。 谷由布さんの父、洋一さんもそのひとりだ。学生運動に身を投じていた洋一さんはチッソ本社前に1年以上座り込み、チッソ幹部との交渉にも加わった。当時を知る人によれば、この頃の支援者の間では単に「支援者」と呼ばれるのを嫌う傾向があったという。つまり患者と同じように自分のこととして意識的、主体的に水俣病と闘っているのだという考え方だ。学生運動が自己実現のひとつの手段だった時代だ。洋一さんは言う。
「私たちのような1970年代に水俣に入った支援者っていうのは、やっぱり意識的に支援をしているというか、そういう時代に生きてきた者なんです。でも由布は、もうここで生まれ育って、同じ目線で患者の人たちと気負いなく普通に接しているなって思います」 一方の由布さん。子どものころは両親に連れられてよくデモに参加していたという。それが成長するにつれ「どうもヘンだぞ」と思うようになった。 「普通の家の子はそんなにしょっちゅうデモに連れてかれたりしないんだなって。中学高校の頃には『うちはちょっと変わっているんだな』ってしみじみ思っていました」
水俣病解決への希望 新世代のスタイル
今、若い世代が政治的な言説はもちろん、批判めいた物言いにも距離を置こうとする傾向に由布さんは理解を示している。 「水俣病の話を聞きに来たりする若い人で、戦いとか闘争とかそういうことに共感する人は昔より少ないです。闘うぞみたいな感じじゃなくて『争わずにやりたい』みたいな感覚を持ってる人の方が昔より多いんじゃないかなと思います」 そのうえで由布さんは、ひとつのスタイルにこだわる必要はないのではと話す。 「社会はやっぱり変わっていくから、その時に生きている人たちがどういう形で社会を変えていくかっていうのは、同じやり方である必要はもちろんないと思っています」 由布さんのような世代は、現地では「第2世代」と呼ばれることがある。今ではその世代に子どもが生まれ「第3世代」も誕生した。 水俣病を解決するために70年間同じ方法に固執する理由は何もない。水俣病が今も解決できないのなら、今をになう人々が知恵を出して、その時代の価値観にあった最適解を探せばいいのではないか。私はそこに解決への希望を感じている。
編集後記
今回、70年代当時の水俣病闘争と支援者の関係をおさらいするため歴史思想家の渡辺京二さんの著作を再読した。水俣病患者を描いた石牟礼道子さんの名著「苦海浄土」を世に出したことでも知られる氏はこうも書いていた。「(水俣病)『運動』を飯のたねにしている文筆の徒に災いあれ」と。私は許して貰えるだろうか。渡辺さんをはじめ当時の「支援」に名を連ねた多くの方は亡くなったが、その営みはまさに形を変えながら続いている。 ※この記事は、熊本県民テレビと Yahoo!ニュースの共同連携企画です。
KKT熊本県民テレビ・東島大