水俣病支援に”新世代”の光 旗に「怨」の文字掲げデモした時代から変わる支援のあり方、若者が共感抱くきっかけに
両親は支援者 暮らしのそばに患者がいた
谷由布さんは熊本県水俣市の隣の津奈木町に生まれ、日本で唯一の海の上の小学校として知られた赤崎小学校で学んだ生粋の地元っ子だ。屈託のない笑顔が年齢を感じさせない。しかし由布さんはこう言う。 「私は地元の子じゃないからっていうか、地元なんだけど根っからの地元とは違うんだなって思っていました」 その訳は谷さんの両親にある。父の谷洋一さん(76)と母の伊東紀美代さん(82)は水俣病の支援者で、ともに1970年代に移住してきた。表に立ちにくい患者に代わって声を上げ、日々の生活の手伝いをし、患者からは厚い信頼を寄せられてきたが、時に「よそ者の支援者」というレッテルを貼られたりもした。娘が幼い頃の生活について洋一さんは言う。 「家には水俣病の患者さんがいつもいたし、家族でどこかへ行くといっても結局患者さんの家に行くわけです。由布が小さい頃から一緒に連れて行っていました。だから家族3人の団らんというよりも、いつもいろんな人が集まっているっていう雰囲気でしたね」 家の近くには胎児性患者の諫山孝子さんが暮らしていた。年は由布さんよりふた回りも離れていたが、誕生日が同じということに運命的なものを感じ、姉妹のように懐いていたという。 高校卒業後、由布さんは「水俣病以外のことを知りたい」と首都圏の大学に進学。卒業後は出版社に勤めていたが、30歳を目前に帰郷する。 「水俣病以外にも自分の関心を広げたいと思って地元を出たんです。でもいろんなことを経験して──たとえばインドネシアで勉強したりしても『この構図は水俣病みたいだな』と思ったりして、やっぱり水俣病は自分の根元のところにあるんだなって感じました。それに水俣病のことをやっていても他のいろんな問題に繋がっていけるんだなっていうこともわかりましたし」 不安はあった。水俣を離れて10年、もう居場所がないのでは。そんな心配は杞憂に終わった。 「水俣に帰りますって両親に言ったら、それなら手伝ってねって言われて。だから私が帰ってきてもちゃんとやることはあるんだなって安心しました」