村上天皇に煙たがられた「堅物」源雅信
3月24日(日)放送の『光る君へ』第12回「思いの果て」では、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)と藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)、それぞれで進む縁談の様子が描かれた。 ■思い悩んだ末に出したふたりの結論 藤原道長と、思いがすれ違ったまま時を過ごすまひろのもとに、縁談の話が持ち込まれた。まひろの父・藤原為時(ためとき/岸谷五朗)の友人である藤原宣孝(のぶたか/佐々木蔵之介)の発案であるが、まひろは気が進まない。 一方、まひろに妾(しょう/めかけ)となることを断られた道長は、左大臣・源雅信(みなもとのまさのぶ/益岡徹)の娘である源倫子(ともこ/黒木華)との縁談を進めてほしい、と父の藤原兼家(かねいえ/段田安則)に頼み込む。 婿入りの決まった道長は、まひろにそれを告げるべく呼び出した。まひろが「妾でもいい」と翻意するのを期待しての告白だった。 一時は妾でも構わないとまで思い詰めたまひろだったが、道長の嫡妻となる女性が親交のある倫子である以上、妾であることですら耐えられない。まひろは絞り出すように道長に別れの言葉を伝えたのだった。 ■政敵の子である道長と娘の結婚に猛反対 源雅信は、920(延喜20)年に生まれた。父は宇多(うだ)天皇の皇子である敦実(あつみ)親王で、母は太政大臣を務めた藤原時平(ときひら)の娘。つまり、雅信は宇多天皇の孫ということになる。 936(承平6)年に臣籍降下(しんせきこうか)して、源姓を賜る。臣籍降下とは、皇族の身分を失い、臣民に下ることであるが、皇族でなくなったとはいえ、宇多天皇の孫という血筋は貴族社会の中で有利に働き、降下後も順調に出世した。 951(天暦5)年に参議。977(貞元2)年には右大臣となり、翌年には左大臣に就任した。 宇多天皇のひ孫にあたる、円融(えんゆう)天皇の在位期間である969(安和2)年から984(永観2)年は、雅信の権力が特に高かった時期といえる。その背景には、藤原氏の権力集中に円融天皇が強く抵抗の姿勢を示していたこともある。なお、弟の重信(しげのぶ)も991(正暦2)年に右大臣となり、兄弟で左右大臣を固めている。