55歳のとき突然死…朝ドラのモデル三淵嘉子の母は女性蔑視しない夫との「リベラル婚」で人生が好転
ドラマ「虎に翼」(NHK)のモデルである三淵嘉子は、32歳のときに母親を亡くし、その同じ年に続けて父親も亡くした。作家の青山誠さんは「母親のノブは、伯父の養女となり血のつながらない義母に家事を厳しくしつけられて育った。ノブにとって女性蔑視思想のない夫と結婚できたことは、人生の大逆転だった」という――。 【画像】新潟家庭裁判所長となった三淵嘉子=1972(昭和47)年6月14日、東京家裁 ※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。 ■嘉子の母ノブは55歳のとき、脳溢血で突然倒れ死去した 昭和22年(1947)1月19日に嘉子(よしこ)の母・ノブが亡くなった。何の予兆もなく突然に。 母は老いても元気で、家事をよくこなし孫の世話をしながら過ごしていたのだが、庭先で洗濯物を干している時に突然倒れて、そのまま亡くなってしまったのである。脳溢血による突然死だったという。 嘉子が家の中で唯一敵(かな)わない相手が母だった。お転婆(てんば)や無作法なことをやらかしてよく叱(しか)られた。しかし、口うるさいのは自分を心配してくれているから。小言を言いながらも親身になって色々と世話を焼いてくれる。そこには深い愛情も感じていた。 また、悲劇はこれだけでは終わらない。同年の10月28日には、ノブの後を追うようにして父・貞雄も亡くなってしまう。貞雄は酒が好きだった。ノブがいなくなってからは悲しみを酒で忘れようとしていたのか、酒量がかなり増えていた。その死因は肝硬変によるものだったという。 ■母に続いて同年に父も……、母は養女、父は婿養子だった 嘉子の父・武藤(むとう)貞雄(さだお)は東京帝国大学法科卒業のエリート。彼が勤務する台湾銀行は大正元年(1915)にシンガポール出張所を開設し、そこへ転勤を命じられて新妻のノブを伴い赴任していた。 貞雄は四国・丸亀の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言(なおこと)の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子だくさんだった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。 直言には子どもがいない。自分と血のつながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。 武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれを叩(たた)き込んだ。便所紙を使いすぎるとか、些細なことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。 義母はかなり細かく几帳面(きちょうめん)な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまた叱責(しっせき)される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。 義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人から叱られているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。