結婚後2週間で無職になって海外挑戦 「何百万円も使った」追い詰められた激動の5か月【インタビュー】
最初に降り立ったドイツではマインツの8部クラブで練習する日々
激動の旅はドイツから始まった。「住んでいる日本人の方が結構多かったのと、以前に稲本(潤一)さんもプレーしていたじゃないですか。とりあえず様子を見て来いよ、みたいな形で行きました」との理由でフランクフルトを最初の地に選んだ。契約のオファーもなければ、練習参加できるクラブもない状態で異国の地に降り立ったのだった。 当時、ドイツでプレーしていた選手の家に転がり込み、居候させてもらった。ただ、すぐにその選手は移籍が決まり、家主はわずか1週間ほどでいなくなった。練習は知人の紹介で、電車で1時間ほどのところにあるマインツのドイツ8部のクラブに参加させてもらった。週2、3回程度、汗を流していたが、待てども、待てどもオファーはなかった。 「なかなか(テストを受けられる)チームもなく、でも、あるだろう、あるだろう、と思いながら、まだ希望に満ちて過ごしていました。ただ、テストの話はなかったですね。時差があって直接日本と連絡することもさほどできず、朝起きてメールを見て確認する、みたいな生活をしていました。言葉も喋れないですし、アテもないので、連絡を来るのを待っている状況でした」。気づけば、テストすらないまま、ドイツでの日々は1か月近くになっていた。 ただ、練習といっても週2、3回ほど。それ以外はランニングをしたり、自室で軽い筋力トレーニングをするくらいで「コンディションはやっぱり難しかったです。ボールをたくさん蹴られるわけでもないですし、グラウンドで練習させていただけるだけで凄くありがたい状況でしたけど、そのクラブの練習のない日は朝起きて筋トレ、体幹トレぐらいしかやることがない。ドイツ語も勉強しながら、食事もほぼほぼ1人で取っていました」。 コンディションが落ちていくことを感じながらも、入団テストの連絡を待つ日々。ようやく、最初の入団テストが決まったのは、ヨーロッパに来て1か月ほど経ってから。手を差し伸べたのは、かつて日本人もプレーしたことのあるフランスの、とあるクラブだった。(次回に続く) [プロフィール] 太田吉彰(おおた・よしあき)/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田ユース―磐田―仙台―磐田。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点。トップ下やFW、サイドハーフなど攻撃的なポジションをマルチにこなす鉄人として活躍した。2007年にはイビチャ・オシム監督が指揮する日本代表にも選出。2019年限りで現役を引退し、現在はサッカー指導者として子どもたちに自身の経験を伝える活動をしている。
福谷佑介 / Yusuke Fukutani