イランとイスラエルはなぜお互いに「敵」なのか?
シーア派教義の影響
このようにイランがイスラエルや米国の敵意を一身に浴びてでも対決姿勢を維持した背景には、イスラム世界の中の対立関係があります。そこには、先述のペルシャ人とアラブ人の間のライバル関係だけでなく、イランで多いイスラム教のシーア派の教義の影響があります。 シーア派はイスラム世界の少数派で、多数派のスンニ派と異なり、「多数によって受け入れられたこと」を教義の正統性の基盤として認めません。シーア派にとっては、聖典コーランと預言者ムハンマドの言行録ハディースのみが、教義の正しさの源なのです。 この教義の特徴は、現代のイランの行動パターンに結びついているといえます。 スンニ派諸国がイスラエルの力を恐れ、これとの直接衝突を避けることは、現実的な判断といえますが、「パレスチナ問題の解決のために取り組むべき」というイスラム世界の共通の原則からは遠ざかるものです。少数者として多数派から差別的に扱われがちなシーア派は、原則に忠実に行動することで、「多数者の誤った判断」を批判するとともに、自らの存在意義を示すことにもなるのです。
イスラエルから見た脅威
ただし、イスラエルは国交断絶後、すぐにイランを最大の脅威とみなしたわけではありません。イラン革命直後に勃発したイラン・イラク戦争(1980~1988年)で、イスラエルはイランに武器輸出を行っていたといわれます。当時のイスラエルにとっては、イランとの戦争で「アラブのリーダー」として頭角を現したサダム・フセイン率いるイラクの方が、むしろ脅威だったのです。 そのフセイン政権は、湾岸戦争(1991年)でイスラム世界からの支持を集めるため、イスラエルに数多くのスカッドミサイルを撃ち込みましたが、各国の政府レベルで幅広い支持を集めるには至りませんでした。その後、2003年のイラク戦争でフセイン政権が崩壊したことは、イスラエルにとっても朗報だったといえます。 しかし、フセイン政権の弱体化にともない、イスラエルは入れ違いにイランへの警戒感を強めていきました。先述のように、ほとんどのスンニ派諸国はイスラエルに対して、外交的な非難以上の関わりを控えるようになってきました。そのため現代では、イスラエルが実際に戦火を交えているのは、レバノンのヒズボラとパレスチナのガザ地区を拠点とするスンニ派武装組織ハマスにほぼ限られています。 これらの組織はイスラエルや米国だけでなく、米国との関係を重視するスンニ派アラブ諸国でも「テロ組織」に指定されています。これに対して、イランは同じシーア派の武装組織ヒズボラだけでなく、スンニ派のハマスも支援しています。これはイランにとって、宗派を超えて「イスラムの大義に尽くす国」としての認知につながりますが、それだけにイスラエルからみればイランは脅威と映ります。 さらに、イランは1980年代からソ連(後にロシア)や北朝鮮の支援のもと、ミサイル開発にも着手しており、2007年11月にはイスラエル全土を射程に収める準中距離弾道ミサイルアシュラの開発成功を発表。また、その前年2006年7月には、ヒズボラが放ったミサイルがイスラエルの軍艦を撃沈させていますが、これもイランの支援によるものとみられます。 このミサイル技術の向上と実績は、イランによる核開発疑惑に対するイスラエルの警戒感をいやが上にも高めるものでした。そのため、イランとの緊張緩和を目指したオバマ政権が、英・仏・独・ロ・中とともにイランとの間で、経済制裁の解除と引き換えにイランの核開発を限定的に認める合意に達した際、イスラエルはこれを公然と批判したのです。