イランとイスラエルはなぜお互いに「敵」なのか?
イスラム革命後の転換
この関係の転機は、1979年2月の「イラン革命」にありました。物価の高騰をきっかけに抗議運動が全土に広がるなか、1月にシャーが亡命。翌月には、抗議運動の精神的な支柱であったホメイニ師が帰国しました。 このイスラム革命は、イスラム波及以前からのイラン文化を強調し、イスラム世界の一員としてより国家としての独立性を標榜し、さらに独裁的でもあったシャーへの抵抗から生まれました。その結果、イスラムの教義と民主主義を結びつけたイスラム共和制が誕生するのに伴い、イランは外交的にも180度転換したのです。 革命では、シャーと結託して石油利権を握り、軍事援助でその独裁体制を支えたアメリカも敵意の的となりました。そのため、1979年11月にテヘランにあったアメリカ大使館が群衆に占拠された際、革命政府はこれを制止しませんでした。これを受けて1980年、アメリカはイランと断交したのです。 これに先立ち、イスラム革命発生直後の1979年2月にイランはイスラエルと断交。革命政府はアメリカを「大悪魔」と呼ぶ一方、イスラエルを「小悪魔」と呼び、「イスラムの敵」と糾弾したのです。 同月、テヘランのイスラエル大使館が退去すると、そこにはパレスチナ独立のためにイスラエルと戦っていたパレスチナ解放機構(PLO)のイラン支部が入りました。これはイランの「イスラム世界への復帰」を象徴するものでした。
イスラエル攻撃の最前線へ
イスラム革命後のイランは、イスラム諸国の中でも率先してイスラエルとの対決に臨むようになりました。1982年に発足した、レバノンのシーア派系の反イスラエル組織ヒズボラを支援し続けたことは、その典型です。 ヒズボラはレバノン内戦の混乱の中、イスラエルが突如として同国に侵攻したことを受けて、レバノンのシーア派によって発足しました。レバノン内戦はイスラム教徒とキリスト教徒の宗派的な対立を背景に、1975年に発生。イスラエルは1982年、キリスト教徒を支援する形で、この内戦に介入したのです。 イスラエルの目的は、内戦に乗じて、当時レバノンに本拠を構えていたPLOを壊滅させることにありました。しかし、首都ベイルートのPLO本部がイスラエル軍に砲撃されても、周辺のイスラム諸国は軍事大国化していたイスラエルとの直接衝突を恐れ、全く動きませんでした。サウジアラビアをはじめスンニ派諸国は、パレスチナ問題をイスラム圏共通の課題と位置づけながらも、実際にはイスラエルとの対決を避け始めていたのです。 この背景のもと、レバノンにイラン型イスラム共和制を樹立することを目指し、イスラエルと衝突を繰り返すヒズボラを支援し続けたことは、イランにとってイスラム世界における立場を高めるものでした。