ゆとり先生の教育提言(1) 「ゆとり教育の指導者第1世代」の挑戦
「教える」でなく「学びたい」を引き出す
世間的に注目され、一見、華やかに見えたこの時期でしたが、私自身が目立つことを目指したわけではありません。繰り返しますが、私の教育の原点は「ゆとり教育の実現」。10年の実践を経て、1990年代後半に大学で学んだ「ゆとり教育」の意義が、ようやく体でわかっていった頃でした。 本当の「ゆとり教育」とは、先生が何かを教えるのではなく、生徒が「学びたい」ということに伴走してやることなのではないか、と考えるようになりました。 2013年頃からは私の高校教諭時代最後の挑戦です。意図的に「教える」ことをやめてみました。受動的な生徒は、先生にすぐ「答え」を求めます。でも、この頃になると、高校生の間にもスマホがかなり普及し、先生が答えを教えなくても、検索ですぐにわかるんですね。となると、先生の役割は一体何なのかと。 そこで、以下のような「教えない」実践をはじめます。 ▼黒板に要点をまとめない(黒板は私の思考を補助するメモ) ▼宿題は極力出さない(やりたい人だけやってこい) ▼どんな小さなことでも「なぜ」を発した人が一番評価される(点採るだけの人はいらない) 生徒たちの大部分から大歓迎でした。先生の話を「おりこう」に聴いていなくても、ノートとらなくても宿題出さなくても怒られることはないし、むしろ、授業中に思ったことを口にすると、褒められるわけですから。しかし、これが問題になります。
15年の教員生活に終止符
旧来の価値観を守りたい先生と、旧来の価値観の中で評価されてきた一部の生徒から見ると、私の実践はおかしなことだらけなのです。なのに新聞やテレビで取り上げられ、学外での講演を依頼される。変な意味で「目立ちすぎ」てしまいました。やがて、私のやり方が理解できない先生は私の排除に向かいます。 「生徒に安易に迎合する」、「授業するスキルが根本的に無い」、「そもそも教員不適格」―― 私はこのようなレッテルを貼られ、管理職もそれを真に受け、ここ数年間の私の実践は全否定されます。悔しい思いでいっぱいになり、体調を崩し、なんとか反論しようとも試みましたが、「必要とされていない場で無理にがんばらなくてもいいかな」と考え、丸15年勤めた職場を去る決断をしました。