「傷痕の奥に見えるもの」千早茜×石内都『グリフィスの傷』
繰り返し再生し傷を治していく生命エネルギー
千早 傷痕を見ると、体がんばったな、生きているなと思います。死人の傷はふさがらず傷痕にならないので。 石内 だから美しく感じます。 千早 そうですよね。自分の意思とは違うものが自分の体にある、その証のような気がしています。私は傷が好きだから、自分が切り傷とか打ち身とか怪我をすると、毎日スマホで写真を撮って治っていく過程を記録しています。それを見ていると、当然ですが、やる気が出ないときや原稿が進まない日でも、傷が変化しない日はないんです。自分の意思に関わらず傷はふさがっていくし、治っていく。それはすごいことであり、恐ろしい。ふと気づいたら茎や幹が伸びている植物のようです。 石内 生命のエネルギーはすごいよね。傷を含めて繰り返し再生していく。やっぱり人間、まだ捨てたものではないと思うんです。この本に対して読者の人たちがどういう反応を示すのかわかりませんが、ネガティブなものが逆にポジティブになっていくといいですよね。フィルムでいうところのネガからポジにね(笑)。 千早 なるほど。ネガからポジは素敵ですね。 石内 フィルム撮影はデジタルと違って、シャッターを切っているときは撮れているかどうか見えないから不安なんです。そのどうしようもない不安がすごくいいの。 千早 不安がいい? 石内 そう。もしかしたら写っていないかもしれないという不安。そして写っているんだけれども、プリントで画像が出てくるまでの感覚と時間の経ち方もすごく楽しい。 千早 多くのキャリアを積まれていても、すべて狙った通りに写るわけではないんでしょうか。 石内 私は狙っていないもん。ピントだけ合っていればいいから。 千早 でも、何かを撮るときは絶対狙ってしまうじゃないですか。 石内 狙っていない。たとえば傷を撮る場合は、そこに傷というものしかないでしょう。だからそこにピントは合わせようとするけれど、たとえ全体に合っていなくてもどこか一ヶ所に合えばいいのです。 千早 わざとピントを合わせていないんですか? 石内 そんなことはないです。何を撮るかというのはあまり考えていないんです。その人の傷はカメラの前で初めて見るわけだから、とにかく驚きのほうが先に来る。びっくりしちゃうわけ。そのときの時間と空間に漂う気配がいちばん大切で、それが写真に写る。 千早 撮影はあまり好きじゃないとおっしゃっていましたね。 石内 すごく苦手。だから撮影には時間をかけません。ぱっと撮ったらやめちゃう。助手もいないから、休憩も挟まないし。 千早 毎日記録のように撮る写真家さんもおられますが。 石内 記録で写真を撮っているわけじゃないから。私にとって写真を撮ることは非日常なの。日常の流れでは撮っていない。非日常を作ることで写真と向き合う、そういう感じがすごくある。だから、写真家とかカメラマンというものではないんでしょうね。 でも、フリーダ・カーロの遺品撮影のときは、メキシコのフリーダ・カーロ博物館で撮影しなければいけなかったから、フィルムを百本持って行って、三週間くらい集中して撮影しましたね。 千早 あれは私も撮影現場を映したドキュメンタリー映画『フリーダ・カーロの遺品 石内都、織るように』(2015年/小谷忠典監督作品)を見て、すごく根をつめて仕事をされる方だなと思っていたのに、お目にかかったらそんなことはなかった(笑)。 石内 失敗してもう一度メキシコに撮りに行くのが大変だから。あのときは、前半に撮ったフィルムを試しにメキシコで現像してみたんです。事前に現地で現像しないほうがいいと言われていたんだけど、やっぱり見たくて。そうしたら全然駄目だった。こっちも海外で撮るのは初めてで、三週間しかないから緊張していたせいか、本当にひどかった。だからもう一度全部やり直したんです。でも変な言い方ですが、現像所で上がったのを見てから、こういう風に撮っていたんだとわかったというか、自分が撮っている感じがあまりしなかった。空の上からフリーダが「ちゃんと撮りなさい」と言っているようで、ちょっとあれは面白かった。現像所も最初は少しトラブルがあったけれど、最終的には全部メキシコで現像しました。