「傷痕の奥に見えるもの」千早茜×石内都『グリフィスの傷』
不注意、事故、性暴力、整形など、さまざまな傷をめぐる十の物語を集めた短編小説集『グリフィスの傷』。 【関連書籍】グリフィスの傷
不注意、事故、性暴力、整形など、さまざまな傷をめぐる十の物語を集めた短編小説集『グリフィスの傷』。作者の千早茜さんが着想源にしたのは、世界的写真家の石内都さんの『Scars』や『INNOCENCE』という傷痕をテーマにした作品群です。日頃から交流を重ねているお二人ですが、今作品の背景や傷痕に対するお互いの考察、書くことや撮ること、そして千早さんが尊敬する石内さんに、この機会に聞いておきたかった読書体験や人生のことなど、じっくりと語り合っていただきました。 構成/綿貫あかね 撮影/神ノ川智早
最後は自分の傷を撮ってシリーズを終わらせる
千早 石内さんの個展に初めて行ったのは、2016年にSHISEIDO GALLERYで行われた『石内都展 Frida is』というフリーダ・カーロの遺品を撮影した作品展のときでした。それから、2019年に東京都庭園美術館の岡上淑子展でお見かけして、つい声をかけてしまいました。 石内 あのとき、若くておしゃれな人だなと思いました。私の持っている小説家のイメージとは全然違っていて、あ、いいかもしれないって(笑)。 千早 ありがとうございます(笑)。石内さんの作品は、それまで企画展で何点か展示されているのを見ていたのですが、あの写真展では石内都の写真に丸ごと包まれる空間を初体験しました。フリーダ・カーロはもともと好きなアーティスト。彼女の人生は本当に痛みにまみれていて、自分の中では痛みの人という認識でした。ところが、そこにあった写真は色がものすごく鮮やかで、人生の喜びに満ちていた。ああ、こういうフリーダもいたのかと、さらに好きにさせてくれた素晴らしい体験だったんです。それから『Scars』(蒼穹舎)や『INNOCENCE』(赤々舎)など傷痕を撮った作品集を知りました。石内さんの写真を見て、傷や痛みを自分でも書いてみたいとトライしたのが今回の短編集『グリフィスの傷』です。 石内 傷や痛みをテーマに書くのは大変だと思うんですよ。決して明るいものではないし、幸せでもない。でも、なるほど、こういうふうに物語るんだと面白く読みました。 私がなぜ傷を撮り始めたかという理由の一つは、自分にも傷痕があったこと。その傷は冬になると疼くんです。何か体の中に違和感があるというか、傷痕が自分の存在を主張するの。 千早 大きい傷痕なんですか? 石内 大きいです。それが気になっていて、この傷痕をちゃんと写真に撮るとどう写るんだろうと思うようになった。そして、やっぱり自分が持っているからか、ほかの人の傷痕も撮りたいという気持ちがすごくあったのね。ただ、傷痕を持っている人を探すのがとても大変。 千早 どうやって探したんですか? 石内 たとえば、何か集まりがあると、終わってから「傷痕はありますか?」って聞いて。でもね、興味深いことに、東京の京橋の国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)での個展で傷痕の写真を初めて発表したときに、意外と傷を持っている人が「撮ってほしい」とたくさん訪ねて来られたんです。それで、傷に対する考え方が少し変わりました。傷痕って一般的には隠すものだと思われていますが、実際に持っている人は、変な言い方になりますが撮られることに割と前向きなんだなと。私の写真はすごく大きくて、縦一メートル五十センチに引き伸ばされた傷痕の写真を見ると、その人たちの体にある傷痕とは全然違うんです。別の世界に行くような感じで、実際の傷痕と写真のものは違って見える。 私自身はまだ自分の傷を撮っていません。隠すことでもさらけ出すことでもありませんが、でも傷痕というのは生きている証拠なんです。死ぬと一緒になくなってしまうわけだから。それで、傷痕はすごく愛おしいなと思って撮り始めました。もうすぐ撮り終わります。 千早 終わりがあるんですね。では、自分の傷痕を撮られるんですか? 石内 始めたら終わりはくるし、だらだら撮っていても仕方がないなと思ってね。実は新たに大きな傷ができてしまって。元からあるのは、小学校二年生のときに腹膜炎で盲腸が破裂して、死にそうになったときの傷痕で、結構大きいんです。それが、昨年子宮がんになって、その横のお腹の真ん中辺に二十センチくらいの傷ができた。このテーマは自分の傷痕を撮って終わりにしようと思っていたのに、まさかその横にこんな大きな傷ができると思っていなかったので、結構ダメージを受けました。 千早 でも自分の体は逃げないので、終わらせるのはもっと先でもいいわけじゃないですか。 石内 いえ、もう長い間撮り続けてきましたから。このテーマは『Scars』から始まって女性の傷痕を撮った『INNOCENCE』に変化しましたが、傷痕というのは男のほうが多いのではと考えて、男性の傷痕から撮り始めたんです。ところが、男性のそれに比べて女性の傷はマイナスのイメージが非常に強い。性暴力を受けた人に対してキズモノというひどい言葉もある。私はそういう言葉に敏感なんです。 千早 女性の傷は確かにそうですね。今回の十編すべてに主人公の名前をつけていないのは、誰であってもいいというふうに読んでもらいたいという意図があります。長編では難しいのですが、短編ならできるかなと思ったので。ただ、いろいろな主人公で書こうとしたけれど、結局は十人のうち男性は二人だけで、ほとんどが女性になってしまいました。女性の傷のほうが物語が深いんですよね。