ケンコバが振り返る越中詩郎の「禁断の試合」 ザ・コブラのための大会で目撃したある異変
ケンドーコバヤシ 令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(14) 越中詩郎「禁断の試合」 前編 【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー (連載13:越中詩郎45周年記念大会での場外乱闘の真相 直前に全日本の社長からの謎のひと言>>) 子どもの頃からあらゆる団体の試合を見続け、各メディアで"プロレス愛"を披露してきたケンドーコバヤシさんが、独自の目線で名勝負を語り尽す連載。第14回は前回に続き、『アメトーーク!』などでその魅力を語り尽した越中詩郎。今回はケンコバさんが思う「禁断の試合」について語る。 【"外様"なプロレス人生】 ――前回は越中さんのデビュー45周年記念大会についてお話を伺いました。今回は「禁断の試合」について語っていただけるとのことですが、「禁断」とはどういう意味なんでしょうか? 「まず言っておきたいのは、俺のなかでの越中さんの"ベストバウト"は、1試合ではないですけど、高田延彦さんとの一連の抗争です。これはおそらく、多くのプロレスファンも同じ意見だと思います」 ――1986年から翌87年にかけて、新日本マットで繰り広げられたUWF・高田延彦さんとの一騎打ちですね。当時、「ジュニアの名勝負数え歌」と絶賛され、今も昭和プロレスファンが語り継ぐ名勝負です。 「俺も高田さんとの試合は、最高の試合として今も脳裏に刻み込まれています。ただ、今回語りたいのは禁断の試合。そのハードルを飛び越えたところが、俺が越中さんを好きになった原点でもあるんです」 ――具体的に教えていただけますか? 「まず、越中さんの45年のプロレス人生を振り返ると、越中さんはどこにいても"外様"で生きてきた方なんです。厳密に言えば、全日本プロレスのデビュー4年目でルー・テーズ杯を制覇した以降は、外様も外様、"オール外様"なんです」
――ルー・テーズ杯は当時、全日本が若手のために開催したリーグ戦ですね。優勝者には海外武者修行の"ご褒美"がついていました。1983年の4月22日に札幌・中島体育センターで行なわれた決勝戦で、越中さんが三沢光晴さんを破って初の海外遠征の切符をゲットしました。 「この試合はテレビ中継されて、俺も『全日本に活きのいい若手選手が出てきたな』と期待しました。海外でさらに飛躍するんだろうと思っていたんですけど、メキシコに旅立ったのは優勝から11カ月後の翌84年3月です。しかも、準優勝で切符がないはずの三沢さんと一緒という......ある意味では、この時から団体内でも外様だったのかもしれません」 ――メキシコでは「サムライ・シロー」のリングネームで活躍しますが、紆余曲折があって全日本を退団。1985年の夏から新日本プロレスに参戦します。 「しかも新日本の所属ではなく、所属選手は越中さんがたったひとりという『アジアプロレス』という団体の選手として参戦したんですよね。このアジアプロレスから、越中さんの"外様人生"が本格的に始まりました。そこから時を経て、反選手会同盟、平成維震軍......どこにいても外様だったんです」 【試合開始早々に、ザ・コブラから強烈な一発】 ――2003年3月に旗揚げされた「WJプロレス」では所属選手でしたが......。 「WJ......この団体についてもいつか、しっかり語らないといけないですね。WJは、越中さんにとっての"黒歴史"という意味で、外様と同義語だと俺は思っています。 越中さんは外様で生きてきたからこそ、『この試合の出来次第では冷遇もあるぞ』っていうターニングポイントがめちゃくちゃ多いんです。しかも、頑張れば頑張るほど冷遇されるかもしれないといったギリギリの戦いが本当に多い。 前置きが長くなりましたが、そんな危機に立たされた試合を、俺は『禁断』と呼んでいるんです」 ――なるほど。 「冷遇の危機を俺が初めて理解した試合が、1986年2月6日、両国国技館でのザ・コブラ戦です。当時、俺は中学生だったんですが、『この試合で越中さんが頑張りすぎちゃったら冷遇されるぞ』と感じ取りました」