「工場閉鎖、業績悪化、がん発症…」老舗帽子メーカー4代目社長が大手企業を退社し右肩下がりの業界に入った訳
「がん患者向けの帽子」が話題の創業112年の帽子メーカー・サトー。その4代目、佐藤麻季子さんは大学卒業後に大手企業に就職をするも、母のある言葉がきっかけで右肩下がりのこの業界に入る決断をしたそうで ── 。(全2回中の1回) 【画像】「これは新しい」創業112年の老舗が開発した医療用ファッション帽子(全13枚)
■「すぐに投げ出す自分を変えたい」 ── 佐藤さんは老舗帽子メーカーの家で、三姉妹の末っ子として育ちました。どのような子ども時代を過ごされましたか。 佐藤さん:何に対してもやる気がない子どもでした。嫌なことからすぐに逃げ出す性格で、そろばんや習字、新体操など、常に習い事をたくさんやらせてもらいましたが、すべて長続きせず辞めることをくり返していました。
── 今のお姿からはまったく想像できません。 佐藤さん:そうかもしれません。社長という大役を担っていることもあり、そのように言われることも多いです。幼少時代はそんな調子でしたが、でも、心の片隅ではずっと「頑張っている人たち」を羨ましいと思っていたんです。 2人の姉は習い事や部活を熱心に頑張っていましたし、両親が会社を守るために必死に働く姿を間近で見てきたので。何かに一生懸命になれる人に対して、憧れやコンプレックスを抱き続けていました。
── そんな佐藤さんが、大学では強豪ラグビー部のマネージャーになりました。 佐藤さん:大学に入学して1年間は何もしていなかったらあっという間に時間が経ってしまい。このままじゃまずいと思って、2年生に上がるときに志願しました。理由は、子ども時代から抱き続けた「何かに頑張る人たちへの憧れ」です。厳しい環境に自分を置いて、何事も投げ出す自分を変えたかった。 当時のラグビー部は、女子スタッフがひとりもおらず、マネージャーの募集自体もしていませんでした。でも、電話で何度も志願したら、面接をしてくださり、なんとか入部することができました。
女子禁制の雰囲気のなか、周囲となじめず、経理事務が主な担当だったこともあり、ひとりで過ごす日々が続きました。部員100人分の運営費の管理を任せられ、大きなプレッシャーと向き合う日々でした。 でも4年生になったころに、部員の皆と海に行ったり、飲みに行ったりすることがやっとできるようになりました。「仲間」として認めてもらえたことが、とても嬉しかったですね。 ── 子ども時代の佐藤さんを知ると、思いきった決断だと感じます。厳しい環境のなか、卒業まで続けられた理由は何だったのでしょうか。