いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す
加害の視点を持つ
阿久沢さんは他の教員らとともに慶應義塾大学で「日吉学」という講座を持ち、学生たちにこの地下壕の話をしている。慶應義塾高校でも授業や放課後に地下壕見学会を行っている。また「保存の会」として、市民との見学ツアーも行ってきた(現在はコロナ禍により中止)。なにを伝えようとしているのだろうか。 「それは戦争加害の視点を持つ、ということです。日本の平和教育は被害の側面から語ることが多い。それは大事なのですが、加害の部分までなかなか目が行き届かない。加害のほうに視点を置くことで、戦争遺跡のもつ積極的な意味が出てくるのではないかと思います。ここは戦争を指導し、特攻の指令を出した場所ですから、戦争の加害の場であり、その意味で『負の遺産』です。それをきちんと認識して、ここでなにがあったのか見つめることで、日吉というこの場所を通して、過去と現在のつながりを考える手がかりを得ることができるのではないかと思います」 「ここには14歳の少年兵士や空襲の被害を受けた地域住民の方々がいました。ここで学んでいた大学生もいました。日吉の戦争遺跡を見学する際には、そうした複眼的な視点をもつことも大事なことだと思います。地下壕の真っ暗な空間の中で、戦争や平和というものを、知識だけでなく五感を通して考えてほしいと思っています」
陸軍の秘密研究所
戦争には被害者がいれば必ず加害者がいる。加害の視点を持つことは、戦争について新しい視座を持つことになる。加害の戦争遺跡を巡る「ダークツーリズム」、3か所目は、神奈川県川崎市にあった秘密研究所「陸軍登戸研究所」だ。ここでは世界初の大陸間移動兵器である風船爆弾のほかに青酸性毒物も開発され、中国・南京に運ばれて人体実験も行われていた。
この研究所の歴史は古く、前身の「陸軍科学研究所」ができたのは1919年のこと。そのあと組織変更や移転を繰り返した後、現地に移転し、1939年に通称陸軍登戸研究所と呼ばれるようになった。現在は明治大学生田キャンパスの敷地内にあり、研究所施設の一部は明治大学平和教育登戸研究所資料館として、見学者を受け入れている(ただしコロナ禍により一般の見学受け入れは現在中止中)。同資料館館長で同大学文学部教授である山田朗さん(64)が解説する。