いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す
「この研究所の発端は第1次世界大戦の経験です。毒ガス、戦車、飛行機など新しい科学技術を活用した兵器がいっぱい生まれて、日本はそういう分野で遅れているという自覚ができました。ところが昭和の初めに不況になって、新しい兵器研究にお金が回らなくなってくる。だから奇策を重視したお金がかからない科学的兵器の研究をするようになりました」
実際に開発された風船爆弾はアメリカ本土で被害を出し、中国紙幣の偽札は日本の国家予算が200億円の時代に40億円も作られて中国大陸でばらまかれた。インドルピーの偽札も、旧ソ連の偽造パスポートも作られた。そして暗殺用兵器として、青酸ニトリルが作られた。これがどのように使用されたのかわからない。だが開発責任者だった伴繁雄技術少佐は同僚とともに東条英機陸相から表彰されている。伴はその副賞を使って敷地内に弥心神社と実験動物の犠牲を悼むための動物慰霊碑を建てた。
「徐々に人間性を喪失していくんです」
戦後、青酸ニトリルと伴の存在は意外な事件でクローズアップされる。48年1月に東京都豊島区の帝国銀行で起きた、行員ら12人を毒殺して金を奪った「帝銀事件」である。犯行に使われた毒物の特徴が青酸ニトリルと似ていて、伴は警視庁・甲斐文助の事情聴取を受けた。その過程で伴は青酸ニトリルを中国・南京に持ち込み、中国兵捕虜や死刑囚などを使って人体実験をしたことを告白していた。甲斐の捜査手記に伴の言葉がある。 《実験を始めた初めは厭であったが馴れると一ツの趣味になった》 毒薬で人体実験することを「趣味」という感性と、動物のため慰霊碑を建てる感性がひとりの人物の中に同居している。
「理解しがたいところがありますよね。でも伴さんや昔の人がとりわけ残酷な人間だったというわけではありません。むしろ優秀で真面目な科学者でした。しかし人を殺す大義名分のなかで、徐々に人間性を喪失していくんです」 それから伴は自分が人倫に反することに手を染めたことにおののき、高校生らの聞き書きに協力するようになり、自ら『陸軍登戸研究所の真実』という手記を残した。その中で人体実験について触れ、詫びている。 「登戸研究所の関係者の口は堅く、研究内容について長く秘密に包まれていました。それが伴さんのような上級者が語り始めたことで、我も我もと話す人たちが現れたんです」