いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す
「慶應と海軍の間で日吉校舎の賃貸借契約が結ばれたのは44年3月10日でした。まず海軍軍令部第三部という情報部が第一校舎、現在の慶應義塾高校の校舎に入りました」 慶應義塾高校の教員で「日吉台地下壕保存の会」会長の阿久沢武史さん(57)が説明する。この土地が選ばれたのは、東京の大本営や横須賀の軍港に近い、高台にあって通信が入りやすい、地下壕が掘りやすいなどの理由があったからだ。
「44年9月29日に連合艦隊司令部が寄宿舎に入り、さらに壕が掘られて、連合艦隊司令長官・豊田副武(そえむ)がそこから指令を出すようになりました。中枢部の使用が開始されたのは44年11月ごろといわれています。驚くほど短期間の工事ですから、慶應や地元住民からすればいつのまにやら、という感じですね」 連合艦隊司令部からは参謀・士官が約70人、下士官・兵が350人程やってきた。終戦時には司令部の人員は1000人近くになっていたという。 「軍令部第三部(情報部)には、のちに思想家になる鶴見俊輔氏もいて、軍属として翻訳の仕事をしていました。連合艦隊司令部地下壕には、まだ10代の電信兵や暗号兵も多くいました。少年兵たちは、自分たちが連合艦隊司令部にいることを知らなかったそうです。食べ物は粗末で上官から頻繁に鉄拳制裁を受ける。つらい毎日で、敗戦の報に肩を抱き合って喜んだそうです」
特攻では、特攻機のパイロットから暗号化されていない通信文が入ってきた。 《ワレ イマカラ ジバク》 そのあとつなぎっぱなしにした電信から「ツー」という電信音がする。その音が途切れたときが、敵艦に体当たりしたか撃ち落とされたか、特攻機の命運が尽きたときである。 ここからは多くの重要指令が出されたが、現場の指揮官たちには評判が悪かったようだ。もともと連合艦隊司令長官は「旗艦」と呼ぶ軍艦に乗り込み、戦場で指揮を執るのがならわしだった。それが海戦の状況が思わしくなく、司令長官が陸に上がり、さらに地下に潜った。「穴から出てきて、肉声で号令せよ」「日吉の防空壕におって、何になるのか、出てこい」という当時の士官たちの声が残されている。 極めつきは戦艦大和による沖縄特攻だった。日吉台地下壕からの命令に対し、大和の司令長官伊藤整一が「そんなものは作戦ではない」と拒否。日吉から伊藤のもとへ、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介が向かい、「1億総特攻の先駆けとなってくれ」と説得したという。その大和に乗艦していた吉田満少尉の『戦艦大和ノ最期』には、若手艦長の「ナニ故ニ豊田長官ミズカラ日吉ノ防空壕ヲ捨テテ陣頭指揮ヲトラザルヤ」という憤慨が記されている。