いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す
現在、内部を見学できるのは象山の地下壕のみだ。ここには政府の職員、NHK、中央電話局が入る予定だった。工事は語呂よく1944年11月11日午前11時に最初のダイナマイトが仕掛けられた。日本人・朝鮮人合わせて1万人ほどの作業員が3交代制で工事を進め、終戦時には80%も完成していたという。トンネルの長さの総計は約5900メートル、そのうちいま約500メートルが見学できる。
訪れて初めてわかること
入り口でヘルメットを借りて、壕の中に入っていく。壕は外に向かって100メートル進むと1メートル高度が下がるように設計されている。「ずり」と呼ぶ掘ったあとの石屑をトロッコに積んで外に運ぶための工夫だ。最初はひんやりとしているが、L字型の見学路の角を曲がると寒くなってきた。中は平均して14度に保たれているそうだが、体感的にはもっと寒い。むき出しの岩肌に触れると氷のように冷たく、しっとり濡れているのがわかった。戦争中は木で居室を50も作ったという。それらは戦後取り壊されたが、本当にこんなところで戦争を指揮して、住むつもりだったのだろうか。戦争継続に異常な執着心を感じる。私の感想に松樹さんがうなずいた。
「壕に入って初めて持つ感想ってあると思うんですよね。湿気で眼鏡が曇ったり、ひんやりした空気に触れたりして。今はネットでなんでも調べられる時代ですけれど、ここに来て自分で体験して、それから自分の頭で考えるようになる」
終戦後、壕の視察にきた米軍は「マッシュルームの栽培に適しているな」と皮肉を言い、長野を訪れた昭和天皇は県知事に「このへんに戦時中、無駄な穴を掘ったところがあるというが、どのへんか」と尋ねたという。
実際に使用された地下壕
松代に大本営を移転させる計画の進行中にも、太平洋戦争は重大な局面を迎えていた。移転先を松代に決定した2カ月後の44年7月、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕し東条英機内閣が総辞職した。さらに10月、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅的な打撃を受ける。そして神風特別攻撃隊、いわゆる「特攻」が始まる。 このとき連合艦隊司令部は、神奈川県横浜市にある日吉台の地下壕に置かれていた。現在の慶應義塾大学日吉キャンパスの地下である。松代地下壕は実際には使用されなかったが、こちらは実際に使われた地下壕司令部だ。