「福島の地酒が、まさかアメリカで再起するとは」300年続く酒蔵、原発事故で捨てた…不屈の家族の13年 #知り続ける
アメリカで見つけた「東北に似た場所」
ただ、双葉町は汚染がひどく、いつ戻れるか分からない。蔵や自宅は朽ちていく。全国を巡って買い取れる古い酒蔵を探したが、なかなか見つからない。 転機は2012年秋。真理さんが知人と初めて訪れたシアトルで直感が働いた。気候が冷涼で、東北に近い。自然が豊かで水もきれいだ。コメも入手できる。 「ここなら…」。しかし、家族で外国に移住して本当に日本酒を造れるものなのか。 悩んでいた時、日系スーパーの元社長モリグチさんから連絡を受けた。第2次大戦中に強制収容所暮らしを経験し、戦後をシアトルで生き抜いた日系2世だ。 「国に翻弄されたのはわれわれと一緒。勇気を持ってシアトルに来てみなさい」 勇気づけられ、チャレンジしようと決めた。自宅や蔵の物件探し、ライセンスの取得、材料の仕入れ…課題は山ほどある。それでも、戻れるあてのない双葉より希望を感じた。 「新たな地でゼロから出発しよう」。冨沢家は覚悟を決め、2014年に渡米した。
酒制限エリア、コロナ禍…困難の連続
当初の目論見は「自宅の敷地に酒蔵を作り、3~4年で酒造り再開」。しかし、そうはいかなかった。 自宅が小学校に近く、アルコール製造制限エリアであると移住後に知った。別の物件を契約したが、ビザ発行に時間がかかって大家が解約を通告。めぼしい物件を探したが、話が進まない。 5年以上が経過した2020年、シアトル近郊の「ウッディンビル」で、ある物件を見つけた。元ワイナリーだ。オーナーに手紙で熱意を伝え、やっと借りることができた。 本格的に準備を始めた矢先、新型コロナウイルス禍に直面する。アメリカ各地は軒並みロックダウン。ただ、蔵の設計を依頼したシアトルの設計士、セルジオさんは作業を続けてくれた。 家業を原発事故で奪われた日本人家族に、心を寄せていたという。 「故郷を離れ、アメリカに来たときの気持ちを考えると言葉がでない」 セルジオさんがこだわったのは「伝統を続けること」。麴室にヒマラヤ杉を張り、空調は昔から使われている通気口を付けた。