「平成」と伴走した最強の批評家、福田和也とは何者だったのか?
持続の意志
しかし「雑誌の時代」は終わり、今は「ウェブ媒体と動画の時代」になった。広告収益が消え、紙媒体の売上は低迷し、出版社は漫画とライツビジネス、そして不動産取引に活路を見出そうとしている。「編集者の時代」を支えたものがたんに「潤沢な資金」だけだったとすれば、もはや活字媒体において「面白いこと」は生まれ得ないということになるだろう。 そうだとすれば、この『ユリイカ 総特集・福田和也』は死んだ福田のみならず、かつての「編集者たち」あるいは「書き手たち」を隈なく墓石の下に送るレクイエムに過ぎないのだろうか。いや、そうではない。 明らかに分の悪い形勢の中で、一足先に福田を送る者たちは過去を懐かしむだけでなく、「抗い続ける」と宣言している。それこそが、この追悼号の土性骨だ。巻頭に置かれた古屋健三の言葉は限りなく〈和也〉に優しく――だいたい、大学教授がゼミ生を下の名前で呼ぶ、などということがあるだろうか――同時に苛烈である。そこには「持続の意志」が刻印されている。 福田ゼミが生み出した批評家のひとりである大澤信亮も『新潮』(2024年12月号)に寄せた追悼原稿で〈自らを保守と呼ぶことにやぶさかでなはない〉【5】と書いた。 〈批評家として守るべきものは、何かに相対するということであり、願わくばそれが、自分にとっても、近しいもの、遠いもの、果てしないもの、それを問うているということが、彼らをつなげるというようなもの。相手が生きていても、死んでいても、その対話のなかにしか文学はなく、責任はなく、その永遠を守る者を保守というのなら、私は自らを保守と呼ぶことにやぶさかでない〉【5】 その大澤を福田ゼミに誘った酒井信(批評家)も、本書で言う。 〈「奇妙な廃墟」の「中の人」が実存を賭け、「希望」を託しながら書いた批評が、「歌と踊りの王国=存在の家」に響き、福田和也がそこに召されることを、心より願う。福田は今日も遥かなるその場所で、酩酊しつつ、甲高い声で歌い、不器用なステップで踊っているだろうか。その場所でも私は、彼の「歌と踊り」の弟子でありたい〉【6】