技術屋が書いたベストセラー数学書――和算家・吉田光由(1598~1672)
鎖国下の江戸時代、日本独自の数学文化「和算」が華ひらく。天才和算家・関孝和のベルヌーイ数発見のような、世界にさきがけた業績がなぜ生み出されたのか。『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(鳴海風著/新潮選書)から一部を抜粋・再編集して江戸流イノベーションの謎に迫る。 ***
江戸時代のベストセラー
江戸時代初期、寛永4年(1627)に出版された『塵劫記(じんこうき)』という数学書がある。『塵劫記』はその後も版を重ね、多くの数学ファンとともに研究者を生み出した。もしこの本の登場がなかったなら、和算文化が花開くこともなかったかもしれない、と言われるほど多くの人々に読まれた本である。 実際、江戸時代後期になると、もはや子供でも知っているような本だった。たとえば、弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)の珍道中記として有名な滑稽本(こっけいぼん)、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』にも『塵劫記』が出てくる。 吉原宿(現在の静岡県富士市)を過ぎたあたりで、弥次喜多の二人は、旅人に菓子を売っている小僧と出会う。 二人は菓子を買って食べるが、小僧が掛け算ができないことをよいことに、喜多八は次々に代金をごまかす。 「二文の菓子が五ツで二五の三文か。コレここにおくぞ」 「三文の菓子を四ツ食ったから、三四の七文五分か。エイワ、五分はまけろ、まけろ」 よせばいいのに、今度は餅(もち)に目をつけて、二人はそれもたいらげて、またごまかそうとする。 「五文ずつならこうと、二人で六ツ食ったから、五六が十五文、ソレやるぞ」 すると、ようやくインチキに気がついた小僧が、掛け算はやめてくれという意味で、『塵劫記』を持ち出すのだ。 「イヤこの衆は、もう塵劫記の九九じゃァ売りましない。五文ずつ六ツくれなさろ」 小僧はまだ『塵劫記』をしっかり勉強していなかったが、その本の中に九九の計算があることは知っていた。「塵劫記の九九じゃァ売りましない」で笑いがとれるほど、『塵劫記』は人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)していたのだ。 『塵劫記』はよく売れたので、たちまち海賊版が出た。江戸時代を通じて、類似の本が続々と出版された。寺子屋で使われる教科書にもなった。明治初期までに出た『○○塵劫記』とか『塵劫記○○』といったタイトルの本だけで、400種類もあるという。とにかく塵劫記と付け加えるだけで「楽しく学べる実用数学書」を意味するようになったほどである。