共に物語を創る
わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、 とべる小鳥はわたしのように、 地面をはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、 きれいな音はでないけど、 あの鳴るすずはわたしのように たくさんなうたは知らないよ。 すずと、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。 (「わたしと小鳥とすずと」金子みすゞ)※1 この詩にはじめて出逢ったのは小学3年生の時。 国語の宿題として暗記し、感想文とともに両手を広げて体をゆすりながらクラスメイトの前で発表した時の体感を、昨日のことのように覚えています。それ以来、一番好きな詩のひとつとして、一語一句、記憶に留めてきました。 しかし最近、30年近く大事にしてきたこの詩を忘れかけている自分がいることに気づきました。
「違う考えを持っている人」にどう反応するか
私は現在、あるプロジェクトのコアチームの一員として、組織の変革を推進しようと努めています。 この組織に所属しているメンバーには、「現状のままでは組織が存続し続けられない」という危機感をもっている人は多いものの、一方で、とにかく現状を維持したい、と思っている人もいれば、変革に対してだいたんに反発をしてくる人や、向かいたい方向性について疑問を出してくる人など、新しい未来を創っていくことに対するスタンスや志のもち方は、人によってまちまちです。 さらには、同じ組織の中にいるのに、全く無関心な人や、まるで他人事のように捉えている人もいて、当事者としてこの組織の未来を一緒に創っていきたいと、変革のど真ん中に参画している人たちは、ほんのわずかしかいません。 勝てるチームで、勝ち続ける事業を構築していくことを目指しながら、私は一人ひとりと関わってきました。しかしある日、自分の気持ちだけが先走って、心のどこかで次のようなセルフトークが生まれ始めてきたことにふと気づきました。 「この人って、なんでこんなこともわかってくれないんだろう?」 「この人には、なんで言っていることが伝わらないんだろう?」 「こっちのやり方の方がいいのに、なんで相手はそう思わないんだろう?」 純粋な好奇心から生まれる「なぜ?」ではなく、相手を責めるような「なぜ?」。 変化に抵抗している相手も、その相手に対抗している私も、結局やっていることは「自分と違う考えを持っている人」に対する反発です。