【山手線駅名ストーリー】 寛永寺や博物館だけではもったいない!「前方後円墳」「頭だけの大仏さま」など穴場スポットもある上野の魅力
小林 明
1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第17回は東京の「北の玄関口」として存在感を示す上野駅。タイトルの(JY05)はJR東日本の駅ナンバーである。
レンガ造りの初代駅舎は関東大震災で倒壊
上野駅の開業は1883(明治16)年7月28日だった。
当初は民営の日本鉄道・上野-熊谷間(埼玉県)の貨物と郵便を運ぶ列車の始発駅で、木造の仮駅舎だったが、翌1884年に熊谷-高崎間が開通したことで、旅客輸送もスタート。85年にレンガ造りの初代駅舎も完成した。
1906(明治39)年、日本鉄道が国有化されると、3年後の09年には品川-池袋-田端区間の路線名称が山手線と決定。同年、烏森(現新橋)-品川-新宿-池袋-田端-上野間の運転も開始され、多くの路線が集まる一大ターミナルとなった。
1923(大正12)年9月1日、関東大震災にみまわれ、初代駅舎は外観をわずかに残して崩れ落ちた。震災前・後の写真を見比べると、いかに甚大な被害をこうむったか分かる。
震災後は木造の仮駅舎で営業が続けられたが、1930(昭和5)年に再建工事が始まり、32(昭和7)年に2代目駅舎が完成。1枚目の写真は同年4月2-3日に開催された落成記念式典をとらえたもので、駅前広場を人が埋め尽くしている。政府・建設関係者も多くいたと考えられる。それだけ上野駅が東京にとって重要な存在だったのだろう。この2代目駅舎が現在の基礎となる。 建設した場所は、武蔵野台地の東端にある「上野台」だ。 上野台は地盤の固い洪積層(こうせきそう)だが、崖下は緩い沖積層(ちゅうせきそう)で、人が居住するには不向きだった。そこで江戸時代、幕府は沖積層に土砂を積んで宅地化し、これによって洪積層のエリアが「山の手」、沖積層が「下町」と呼ばれるようになる。 上野駅はその2つの地層の境界に位置する崖に立つ巨大建造物である。 実際、上野駅改札の「不忍口(しのばずぐち)」を出て徒歩で「上野公園口」へ向かうには、急坂を上らなければならない。坂から見ると駅舎が斜面に立っていることが、はっきり分かる。 坂の上には国立西洋美術館と東京文化会館がある。この辺りは海抜18~19メートルで、ビルがなかった頃は小さな山に見えた。古い近隣住人は一帯を「上野のお山」と呼ぶ。