【山手線駅名ストーリー】 寛永寺や博物館だけではもったいない!「前方後円墳」「頭だけの大仏さま」など穴場スポットもある上野の魅力
上野の地名は文明年間に成立した可能性が高い
地名の由来は諸説ある。 ・小高い岡にあり、草の生い茂った野原であったため(江戸往古図説) ・江戸時代初期に屋敷を賜っていた藤堂和泉守(高虎)の国許である伊賀国(三重県)上野と、地形が似ていた(江戸砂子・遊歴雑記) ・東にある「下谷」に対して上野と呼ばれた(江戸志) ・小野篁(おの・たかむら/平安時代の公卿)が上野国(こうずけのくに/群馬県)への赴任を終えたのち、しばらく滞在した(小野照崎神社縁起) ・木々が繁って人が住めず、鳥の糞(ふん)ばかりだったことから「烏穢野(うえの)」と呼ばれた(出典不明) 一方、上野の地名が確認できる最も古い文献は、鎌倉時代の浄土真宗教団一覧帳「親鸞聖人門侶交名牒」に、覚念という僧侶の住んだ地が「ウへノ」と記されており、このことから12世紀末~14世紀前半には地名として成立していたとの説もある。ただし、この「ウへノ」が現在の上野を指しているかは、確証がない。 上記のうち有力なのは「江戸往古図説」であると、歴史家の浦井祥子はいう(東京の地名由来辞典/東京堂出版)。
浦井は、上野の地名は文明年間(1469~1487)に成立した可能性が高いと指摘しており、そうなると鎌倉時代の「ウへノ」は早すぎ、江戸時代の「藤堂和泉守」は遅すぎることになる。「下谷」に対して上野という説も、下谷村が確認できるのは戦国時代からで(東京の地名由来辞典)、文明期より遅い。その他は出典の信ぴょう性に欠けるということだろう。 整理すると、やはり小高い岡──つまり地形に由来するとした『江戸往古図説』が、信頼できるのではなかろうか。
上野の名を冠した地名に「上野広小路」がある。現在、行政地名としては残っていないが、上野3丁目にある繁華街の通称であり、東京メトロ銀座線「上野広小路」駅にその名を留めている。江戸時代は下谷広小路と呼ばれることが多く、歌川広重の『名所江戸百景』では下谷広小路となっている。 「広小路」は、そもそも火災が発生したときに庶民が退避する火除地(ひよけち)だった。6万8000余人の犠牲者を出した明暦の大火(1657)の教訓をいかし、幕府は江戸市中のいくつかの箇所で道幅の拡張工事を行い、火災発生時の避難場所とした。上野は両国・浅草と並ぶ三大広小路といわれた。 造成された場所は寛永寺の門前──つまり寛永寺の参拝道でもあり、将軍家の関係者が寛永寺に眠る歴代将軍墓所に参る際の御成道でもあった。 ところが、広くなった道に目をつけ、いつのまにか相次いで商店や茶屋が出店し、緊急時以外はにぎやかな繁華街として発展していく。商店の代表格が1707(宝永4)年に進出した松坂屋である。この松坂屋を1768(明和5)年、尾張(名古屋)の呉服商・伊藤屋が買収し、経営母体を変えながら、現在まで続く老舗デパートとなる。