アトレチコ鈴鹿クラブ誕生物語。元Jリーガー社長が主導し「地元に愛される育成型クラブ」へ
カズとの出会い。「しょうがねえ、親父を紹介してやる」
斉藤がトップに昇格して2年目、1990年には4学年上の大スターが読売クラブのチームメイトになった。 「毎日カズさんにくっついて『ブラジルに行かせてくれ、行かせてくれ』とお願いしていました。『しょうがねえ、親父を紹介してやる』と言ってもらいました」 念のため説明すると鈴鹿の三浦泰年監督はカズの兄で、二人の実父でもある故・納谷宣雄氏は日本とブラジルのサッカーをつなぐエージェント的な活動をしていた。当時の読売クラブは実業団中心の日本サッカーリーグ(JSL)でも例外的なプロの集団だった。 斉藤はプロ1年目に、納谷氏が結成した日本人選抜チームに読売クラブから『補強選手』的な位置づけで送り込まれて、ブラジルの大会に出場していた。2年目のオフも自費で渡航し、現地のクラブに練習参加をしていた。そして読売クラブで3シーズンプレーしたのち、プロ選手として1992年から「キンゼ・デ・ジャウー」に加わる。若き日のカズもプレーしていた、サンパウロ州のクラブだ。 「ブラジルでずっと続けようと思っていましたし、サンパウロ州選手権もレギュラーで出られていたんです。そうしたら今度は『エスパルスに行かないか』と言われて……」 清水は母体チームがなく、静岡県出身者を中心に選手を集めて1993年のJリーグ初年度に臨もうとしていた。長谷川健太、大榎克己、堀池巧、そして三浦泰年といった当時の代表級プレイヤーが集まっていた。納谷氏はチーム編成の中心的な存在で、斉藤はその説得に応じて帰国を決意した。 ただし1993年シーズンは椎間板ヘルニアで16試合の出場に留まり、翌94 年は足首の開放性脱臼という重傷でほぼ棒に振ることになった。コンディション的にJリーグでのプレーが難しいと本人も感じていた中で、95年には読売ユース時代の恩師が監督を務めていたブランメル仙台(ベガルタ仙台の前身)へ移籍する。しかし鈴木武一監督は成績不振で退任し、リトバルスキーやオルデネビッツといった「ジェフ組」の大量加入もあった中で、96年に仙台を退団。キンゼ・デ・ジャウーに復帰して短期間プレーした後、スパイクを脱いだ。