アトレチコ鈴鹿クラブ誕生物語。元Jリーガー社長が主導し「地元に愛される育成型クラブ」へ
サッカーを「校技」とする暁星サッカー部をやめ、読売クラブへ
斉藤社長はサッカーを「校技」とする暁星小学校に入学したことで、サッカーに出会った。 「初めてサッカーボールに触ったのが、小学1年生のときです。時間割に『サッカー』の授業がある学校です」 暁星中学、暁星高校は学業の水準も高い学校だが、前田遼一を筆頭に多くのJリーガーを輩出したサッカーの名門。斉藤社長の高校時代も1学年上に大倉智(柏レイソルなどでプレー/現いわきFC社長)、同学年には石川健太郎(元柏レイソル)といった後のJリーガーがいた。ただし彼は中2でサッカー部をやめ、読売クラブに移る。 「僕は高3まで暁星にいたので、授業はそのまま受けていました。サッカー部は国見を破って、全国3位になった世代です。でも僕は中2のときに読売クラブに行って、クラブユース連盟の試合しか出ていません。18歳のときに1軍へ上がって、ユース代表にも入っていました」 余談だが斉藤と同じタイミングでトップ昇格を果たしたのが、Jリーグ草創期の人気者だったFW藤吉信次だ。当時は決して「陽のあたる場所」ではなかったクラブユースに移籍した理由を彼はこう振り返る。 「サッカーが好きで好きで、プロ選手になりたかったんですけど、日本にはサッカーのプロが無かった時代です。だからまず『海外に行きたいな』と思ったんです。カズ(三浦知良)さんがブラジルに行く前で、水島武蔵さんとか奥寺(康彦)さん、暁星の先輩・尾崎(加寿夫)さんといった選手がいました」 水島はブラジル、奥寺と尾崎はドイツでプレーしていた海外組の先駆者だ。小6で目にしたFIFAワールドカップ・スペイン大会が、少年の「ブラジル愛」に火をつけた。 「ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾの時代です。1982年ワールドカップに衝撃を受けて、『ブラジルしかない』と思ったんです。あと暁星は勉強もしっかりやって、規則正しくサッカーも……という方針でした。『サッカーだけを頑張れる環境はないのかな』という子どもの少し甘い考えで、(ブラジルスタイルの)読売クラブの門を叩いたんです」