永遠のケービン③ 嘉数高台とヒージャー 帰ってきた令和阿房列車で行こう 第二列車
戦前、沖縄本島に延べ約50キロにわたって敷設された軽便鉄道(ケービン)の跡を訪ねる旅は始まったばかりだが、ちょっと寄り道。 かつて敏腕政治記者として鳴らした元同僚・南海和尚が、沖縄の地に住んでいるという。 軽便鉄道のように小さいサンケイ1号君の愛車、ケービン号を駆って(といっても当方は助手席で居眠りしていただけだが)宜野湾市にある某寺院を訪ねると、見事な禿頭(とくとう)姿になっていた南海和尚が、にこやかに迎えてくれた。 聞けば、家族一緒に沖縄に移り住んだそう。子供も喜ぶもっといい土産を持参すれば良かった、と悔やんでも後の祭り。 俗塵(ぞくじん)にまみれた記者を辞め、宗教の道に入ってから家族仲も血色もよくなったというから、結構毛だらけ猫灰だらけだ。 38年も永田町と大手町をうろうろし、「赤い狐(きつね)」がどうの、「緑の狸(たぬき)」がどうした、といった類いの話ばかり書いていては、後生が良くないのは当たり前。 「余生は宗教の道に進もうかな」とつぶやくと、「壺(つぼ)だけは売らないでくださいよ」と1号君にくぎを刺されてしまった。 訪問もそこそこに和尚から「日の暮れる前にあそこへ行きましょう」と提案された。 あそこ、とは嘉数高台公園である。嘉数高台は、沖縄戦有数の激戦地(注)で、トーチカ跡が今なお遺(のこ)されている。 展望台はあいにく工事中だったが、普天間基地を一望にできる場所には、テントが張られ、高そうなカメラを構えた監視員さんが、スタンバイしていた。 1号君によると、沖縄防衛局に委嘱されて普天間基地と周辺を監視しているそう。「ご苦労さま」と、声をかけようとしたら2人に止められたのは言うまでもない。 公園内には「京都の塔」が建てられていた。嘉数に投入された第62師団独立混成旅団には京都出身者(約3500人)が多く、ほとんどがこの地で散華した。嘉数の人々も米軍人も数えきれぬほど亡くなった。 粛然と手を合わせた後、「精進落としに『あしびJima』でホンモノの琉球料理を食べましょう」と、南海和尚が言うので一も二もなくついていった。