天才・イチローを覚醒させてしまった敵軍・西武二軍監督の“たった1つ”のアドバイスとは
日本にとどまらず、メジャーリーグでもヒットメーカーとして知られるイチロー。1994年シーズンにオリックスで首位打者を獲得し、一気にスターダムの階段を登っていったが、天才の覚醒前夜にアドバイスを送った西武の二軍監督がいた。当時の西武の二軍監督だった広野功とイチローの知られざる秘話を紹介しよう。本稿は、沼澤典史『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)を一部抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● リュックを背負った“変なおっさん” 「私、鈴木一朗の父です」 西武の二軍監督時代に広野功が指導したのは、自球団の選手だけにとどまらない。広野は間接的にのちのヒットメーカーの指導もしていたのである。その男とはイチロー(当時の登録名は鈴木一朗)。プロ2年目の選手で、まだ一軍に定着していなかった。 1993(平成5)年10月14日、この日オリックスは西武とのシーズン最終戦のため西武球場に来ていた。 二軍監督である広野は西武球場に隣接する西武第二球場で、ファームの選手らの練習を見守っていた。球場のフェンスに寄りかかり、選手をながめているとリュックサックを背負った見知らぬ中年男性が夕日を前面に浴びながら近づいてくるのがわかった。 なんか変なおっさんが来たな……。 男は広野にどんどん近づき、フェンス越しに「広野さん!」と声をかけてきた。 「はい。なんですか?」 「私、鈴木一朗の父です」 「鈴木一朗?ああ、オリックスの。鈴木のお父さんがなんの用で?」 「オリックスの控え選手は、試合前にこの第二球場の横にある室内練習場でバッティング練習をしますよね。そこにうちの一朗も来ます。ぜひ、広野さんに息子を見てほしいんです」
「いやいや、なんで私が?」と話がまったく見えない広野。すると、そのわけをイチローの父、宣之は滔々と語ったのだった。 ● イチローが一軍で打てない理由 修正には1年はかかる厄介な欠点 宣之は、東海高校(愛知)の野球部出身だが、そこに高木利武という同級生がいた。高木は高校卒業後に慶應大野球部に入部するのだが、彼は広野の1学年上の先輩である。 広野が中日入りの際、高木は宣之に対して「こいつは長嶋さんと同じ記録を作ったやつだから、よく見とけよ」と伝えていた。 熱狂的な中日ファンである宣之はキャンプから広野のことを追い、インタビューなどが載っている新聞や雑誌をすべて読んでいたというのだ。 「堀内(恒夫)からの逆転サヨナラ満塁ホームランは感動しました。息子ができたら広野さんのように、右投げ左打ちにさせたいと思っていたんです。だから、一朗を右投げ左打ちにさせたんですよ。それで、記事で読んだ広野さんのバッティング理論を全部一朗に教えました。だから、あなたに一度息子を見てもらいたいんです」 そこまで、言われたら敵の選手といえども広野は断ることができない。室内練習場でバッティング練習をするイチローをネット越しに宣之と見た。