天才・イチローを覚醒させてしまった敵軍・西武二軍監督の“たった1つ”のアドバイスとは
その年のイチローは打率1割8分8厘に終わっており、まだ才能が開花する前だった。しかし、軸がしっかりとしてシャープなスイングをするイチローに広野は驚いた。 「お父さん、息子さんはすごいですね」 「でも、レギュラーじゃないんですよ。一軍に出ても打てない。広野さん、なにが悪いんですか?」 5分ほどイチローを見た広野は、ある欠点に気がついた。打ちにいく際にバットが左肩のほうへ倒れるのだ。 「お父さん、あそこ。打ちにいく瞬間、バットが寝るでしょう。その一瞬でバットの出が遅れるんです。二軍では打てますが、一軍の投手の速くてキレのあるボールには差し込まれます。でもね、これは本人が無意識にやっていることでしょう。これを直そうとすると他の動作に制約がかかるため、かなりストレスになる。簡単には直りません。1年はかかるでしょう。ただ、これが一軍と二軍の壁になります」 「なるほど。わかりました。息子に伝えておきます。ありがとうございます」 イチローがバッティング練習を終えると同時に、父もまた去っていった。
● 天才・イチローの“開眼” 「お父さん、息子さんは3割打ちます」 このようなエキサイティングな二軍監督生活は、1年で終了する。広野が二軍監督を務めていた1993年の暮れ、一軍監督の森祗晶が広野を自宅に呼び出して、こう言った。 「広野、一軍に戻ってこい。黒江(透修=当時の打撃コーチ)と清原たちが合わん」 広野いわく、黒江は選手たちに自分の打撃を押し付ける指導方法であった。上から押さえつけるような指導に、プライドの高い高額年俸プレイヤーたちが素直に従うはずがない。 「いや、森さん、二軍の監督おもしろいんで、このままやらしてください」 「バカ野郎!そら二軍監督はおもろい、俺だって二軍監督やりたいわ!」 「そうですよね……。わかりました」 広野は、再び一軍打撃コーチに就任し、結果としてリーグ5連覇に貢献したのだが、就任直後のオープン戦で、イチローの父と再会を果たしていた。 その日、オリックスとのオープン戦が雨で流れ、両軍が交代で室内練習をすることになった。広野は先に練習をしていたオリックスの仰木彬監督へ挨拶するために早めに現場へ向かった。 仰木はこの年から監督に就任しており、広野は仰木と西鉄時代に懇意にしていた関係で祝いの挨拶をしようとしたのだ。仰木に挨拶を終えると練習場の中に宣之がいた。