モンゴル出身者が感動した親日派中国教師の教え 先生が歴史の教科書を「これは全部ウソ」と否定
■漢人にも親日派が 「日本人はどんな人たちだった?」と尋ねたとき、先生が「礼儀正しく、清潔だった」と答えたことは強く印象に残った。父の言葉は噓ではなかったのだなと子供ながらに確信した。ちなみにこの清潔というのは、衛生的な意味もあるが、洗練されていたという意味でもある。 私が日本語を教わった朱先生は、仙台の東北帝大(同大の医学専門部の前身が仙台医学専門学校)に留学したというから、のちの「文豪」魯迅の後輩だった。戦時中は満洲国の役人だったそうだ。真夏でもシャツのボタンを首もとの一番上までかけていた。いつも始業の5分前に教室へきて、授業を終えるとさっと帰っていく。パーフェクトな日本語で、父や先生から聞いた日本人のイメージそのままだった。
私の家族だけでなく、モンゴル人には知日家が多いとは思っていたが、漢人にも親日派がいることは意外だった。先生たちは知識人だから、文革期に紅衛兵と漢人農民などから暴力を受けたようだった。障害が残って足を引きずっている先生もいた。 下放知識人に教わった私の学年は、40人ほどいて、そのうち1人が浪人しただけで、全員が難関大学に合格した。紅衛兵の暴力で後遺症がある校長先生は、共産党から「全国労働模範」として表彰されていた。当時の中国全土の大学進学率は4%程度だった。
私たちが卒業した年、知識人の先生たちはみんな大学へ戻ってしまい、大学合格率は翌年から従来のレベルに下がったそうだ。奇跡的なめぐり合わせで、難関大学へ進んだ同級生たちは、現在も各界の要職で活躍している。 私は日本語を勉強するため、北京第二外国語学院(大学)に進学した。この大学(以下、第二外大と略す)は、政府の外交部(日本でいえば外務省)とつながりが強く、外交官をめざす学生が多かった。周恩来が初代名誉学長で、今の王毅外相は私の6年先輩にあたる。
第二外大に漢人以外から入学したのは、どうも私が最初だったようだ。入学したての頃は「草原からきた奴って、どいつだ」と先輩たちが、学生寮へ見物にきた。 アジア・アフリカ語学部で日本語学科の教授は、ほとんどが旧満洲国の知識人か愛国華僑だった。愛国華僑というのは、日本に住んでいた華僑の人たちで、政府の「祖国が新中国になったよ。すごく発展している。あなたたちの力が必要だよ」という誘いに乗って中国に渡った人たちだ。各国語に愛国華僑の先生たちがいたが、2世・3世なので中国語があまりできない人もいた。