「童顔のサムライ」大谷と羽生が示す日本の方向性──「しなやかさの外交」
童子という偶像(アイドル)
戦後日本を統治したマッカーサー元帥は、帰国後アメリカの議会で「日本人は12才の少年」と発言した。 誤解されているが、これは悪意ではない。統治の経験からむしろ日本人の素直な資質に肩入れした言葉である。ドイツの戦争は近代化したつまり成人の悪であったが、日本はまだ近代化の過程にあったにすぎないというのが本意のようだ。 筆者はこれに、本居宣長の「直毘霊(なおびのみたま)」という言葉を思い起こす。宣長は「やまとごころ」すなわち日本文化の本質は、中国の儒教的な学問によって教育されたもの(からごころ、漢才)ではなく、自然の中にそのまま育つ「真っ直ぐな心ばえ」であるとする。 この、大陸的な思想や教育の観点からは「未熟」とされるような、童子心を尊重する精神は、子供がその地位に就くことが多かった天皇制、仏像(偶像)を本尊として崇拝する日本仏教、現代のアイドル文化などを考えても、日本文化に顕著な傾向であろう(『アイドルはどこから』篠田正浩・若山滋著・現代書館刊、参照)。 東日本大震災のときの避難者の静穏な態度や、財布を落としても手つかずで戻るなど、諸外国のマスコミが感嘆するのも、この童子のような素直さの文化である。
童顔のサムライと「しなやかさの外交」
カミカゼ、ハラキリなど、日本の「武の文化」には暗いイメージもついてまわる。時とともに移ろう「和の文化」も、独自性の主張を基本とする国際マーケットでは認知されにくいところがある。今後の日本文化は、この二つの側面をうまく合わせた方向に舵を切らなくてはならないと筆者は考えてきた。 羽生と大谷は童顔のサムライだ。柔らかい強さがあり、爽やかなしぶとさがあり、穏やかな激しさがある。「武」と「和」、二つの文化を合わせもつところは日本文化の進むべき道を示すように思える。 最近の日本の若者に向上心が欠如しアイドルを追いかけてばかりいることを心配する向きもあるが、スポーツ選手の活躍は、それだけではないことを感じさせてくれる。 眼を転じれば、現代政治の方向性にも当てはまるのではないか。 トランプ、プーチン、習近平といった、軍事大国のコワモテ(強面)リーダーに囲まれた日本は、柔らかい強さ、爽やかなしぶとさ、穏やかな激しさ、そういった外交を展開する必要に迫られているように思える。ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~1815年)を切りまわしたメッテルニヒのような権謀術数もいいが、日本には日本らしい童顔のサムライ的な外交術=「しなやかさの外交」があるような気がする。 とはいえ、たとえ童顔で素直ではあっても、子供のような無知と未熟をさらけ出すわけにもいくまい。そのためには、自国とその文化に対する冷静で客観的な認識が必要であり、他国とその文化にたいする敬愛の念も必要である。それこそがサムライというものだろう。ユニークな美しい文化の国であるが、ともすれば島国的な夜郎自大におちいるところもあるのだ。 北朝鮮をめぐる各国の駆け引きは、日本外交の正念場である。 安倍首相には、国内政局に迷わされず、日本の行く末のみを考えて行動してもらいたいのだが……。