「童顔のサムライ」大谷と羽生が示す日本の方向性──「しなやかさの外交」
日本文化の二面性「武の文化・和の文化」
日本文化には二つの側面がある。 一つは鎌倉から江戸まで、日本史の中核が武家の社会であったことからくる「武の文化」であり、武士道はその精神規範である。言語と交渉より実力と行動を信奉する。今よくいうところの「サムライ」は、海外に対する日本のスポーツ精神を「武」にたとえたものだ。戦争は否定されても武の精神が否定される必要はない。 もう一つは、何事も日本的な様式を「和風」とするように、外来に対する「和の文化」である。「和」とは本来「なごみ」であり、建築における「和様=和風」は、中国から来たものが日本風に和んだ様式を指す。特に、遣唐使を廃したあとの王朝文化において形成され、中世武家文化にも継承された、時(四季)とともに変化する「移ろい」の美意識を中心とすると考えていい。 西欧文明を受け入れてからも、「武の文化」は明治の日露戦争、昭和の太平洋戦争における軍国主義(本来の武のリアリズムから外れた部分もあったが)となって現れ、戦後の経済成長と海外の不動産あさりにおけるエコノミックアニマルぶりとなっても現れた。「和の文化」は、中国(漢才)に代わって西欧(洋才)の文化を日本流に和ませ、大正のモダン文化(たとえば「今日は帝劇、明日は三越」)、戦後のアメリカ文化順応(映画と軽音楽)、現代のマンガ、アニメ、アイドルなど「軽カルチャー(オタク文化)」となって現れてもいる。 二つの文化はいずれも、大陸的な思想と宗教の葛藤からくる論理と弁証の文化からはやや遠いところにあると思える。
「武士道」と「もののあはれ」・「家」と「やど」
よく取り上げられる新渡戸稲造の『武士道』は、儒教的徳目を縦糸にして、源平合戦や赤穂浪士など、謡曲や歌舞伎を横糸に語ったもので、忠節と自己犠牲が強調されているが、ルース・ベネディクトの『菊と刀』が、より論理的、客観的に、日本社会の武士道的特質を論じている。 とはいえ日本社会に儒教が浸透するのは、徳川家康が戦国武士の魂を静めるために官学化してからのことで、それ以前の武士道は、下剋上のマキャベリズムもあり、領地を統治する経済リアリズムもあり、つまり日本の「家社会」を実力でコントロールする精神であった。ジェンダーとして男性的なものである。 一方「和の文化」は、十七条憲法「和をもって尊し」以来、この島国の基本精神であるが、遣唐使を廃したあとの王朝文化=国風文化において、仮名(漢字に対する仮の文字)と和歌(漢詩に対する和の歌)の成立によって明確なものとなった。 『古今和歌集』や『源氏物語』に現れる花鳥風月の美意識が典型で、本居宣長はこれを「もののあはれ」としたが、「あはれ」とは現代でいう「悲しみ」ではなく「常ならぬものに応じる微妙で儚い美的感覚」である。中世の無常観、あるいは草庵、作庭、能、侘茶、俳諧などにもつながり、「家」に対する「やど」に顕現する文化でもある(『「家」と「やど」』拙著・朝日新聞社刊、参照)。仮名は女文字とされ、恋をモチーフとする和歌が多く、女官が王朝文学を担ったように、ジェンダーとして女性的なものである。 羽生と大谷の人間像には、この二つの文化が並び見られるのだ。