じつは、東日本と西日本は大きく違っていた…民俗学が明らかにした「社会構造」
東日本と西日本は異なる社会だった?
宇野 『忘れられた日本人』の解説を書いている網野善彦は、若い頃、マルクス主義の図式で日本史を見ていたんだけど、そんな図式には限界があると悟っていきます。その過程で、宮本常一や渋沢敬三の民俗学を勉強し直すんですね。ですから、網野の解説を読むと、彼が宮本に対して憧れと同時に、自分はそこまでたどり着けないという距離感があって、その鬱屈がまた興味深い。 畑中 網野さんは山梨県の出身で、東日本の社会制度が日本列島全体の仕組みだと考えていたんですが、『忘れられた日本人』を読むことで、西日本では東日本の武家中心とは異なる社会システムがかなり持続的に続いてきたことを発見していったという経緯があります。 宇野 東日本では家父長制が強いのに対して、西日本では異なる姓の人、つまり違う集団が同じ村落に暮らしているため、寄り合いをやっていかざるを得なくなった。この寄り合いの文化は、封建制よりはるかにデモクラティックなものです。 宮本常一は基本的に理屈っぽくないんですが、ときどきそういう社会構造の話をするんです。網野はそこに引っかかって、宮本はそれを理論化するべきだったのに十分にできなかった、と苦言を呈した。網野には宮本に対して相反した愛とディスが共存してるんですね。 若林 東日本と西日本について言うと、宇野さんは『近代日本の「知」を考える。―西と東との往来』(ミネルヴァ書房)という本を出されています。宇野先生自身には、日本の社会の構造を考えるときに、東と西は違うものだし、それを相対化していくことが大事だという感覚がおありですか? 宇野 日文研(国際日本文化研究センター)の井上章一さんに、「歴史家というのは西と東で全然違う」と言われたことがあります。関東系の歴史史学者は武士こそが日本史を作った鎌倉武士中心史観で、それ以前の公家なんて和歌を詠んで蹴鞠をしてみたいな書き方をするけど、西日本の立場からするとあれは嘘だよ、と。「関東の田舎で暴れてる連中がいただけで、政治体制は京都の公家と天皇と社寺が維持した。日本全体を見たらあれはしょせんローカルな話だ」と言うんですね。いわゆる「権門体制論」ですが、関東と関西の歴史家の考え方の違いを実感しました。 若林 そう言えば「会社の社会史」という連続イベントで、畑中さんと母性保護論争を話題にしたことがあります。平塚らいてうと与謝野晶子が、母親という存在は国家が守るべきか、あるいはそんな必要はないだろうという議論です。この論争で平塚らいてうは、「家」というとき、明らかに武家の家をイメージしている。ところが、堺の和菓子屋に生まれた与謝野晶子は商家をイメージしていて、同じ家でも全く違うことがわかりました。 宇野 東京の学問は、京都、大阪に対するコンプレックスからじつはスタートしていて、自分を強く見せるため、西洋的な知識、最先端の知識を導入して、コンプレックスを乗り越えようとしたんです。それに対して関西の学問は「それには乗りませんよ」と。だからカウンターになるところがあって、哲学でも西田幾多郎をはじめ、京都で花開いたんですね。 今、私たちは、東京一極集中に慣れてしまってますけど、江戸時代には江戸と京都と大阪の三都体制でしたし、明治以降、実は昭和になってもかなりの時期まで、東西両立時代が続いていたんですね。学問の歴史を考えるうえで、こうした視点を忘れないようにしたいものです。
宇野 重規/若林 恵(黒鳥社コンテンツディレクター)/畑中 章宏(作家)