じつは、東日本と西日本は大きく違っていた…民俗学が明らかにした「社会構造」
藤田省三による宮本常一批判
畑中 宇野さんは『民主主義のつくり方』(筑摩選書)で、藤田省三を取り上げていらっしゃいますね。 宇野 藤田は日本の超国家主義者批判をしたり、「転向」の研究に取り組んだりしていた頃は丸山の直系そのものでした。ところが、1970年代以降、アカデミズムから離れて沈静した期間があって、そのかんにイギリスの民俗学にふれたりすることで、1980年代以降に復活するんです。 一方、橋川は丸山の鬼子みたいなところがあって、日本浪曼派が大好きだし、三島由紀夫のことも敬愛している。頭では前近代の封建遺制を批判した丸山眞男が正しいと考える近代主義者なんだけれど、心では「日本の伝統はそんなに悪いものか」という師匠に対する反発がある。 畑中 宇野さんがおっしゃるように、橋川は近代的合理主義とは相いれない情念だとか、保守的な浪漫主義に共感を抱いていて、保田與重郎や伊東静雄、三島由紀夫をかなり熱心に読み込んでいましたね。でも最近はそういったタイプの政治思想史家はいなくなりました。 若林 それはなぜなんでしょう? 宇野 政治思想史研究では文献をきちんと読むのに対し、民俗学は文献にならないものを研究するので、質的調査や聞き書きが洗練されていって、ふたつがどんどん離れていったんではないしょうか。それと、丸山を克服したいと思っていた弟子たちのパッションが、なかなか継承されなかったのかもしれませんね。 若林 なるほど。ではそうした流れのなかで宮本常一はどういう位置づけになるんですか? 畑中 たとえば藤田省三は「思想の科学」による「転向」研究で、宮本が戦前に書いた『村里を行く』のスタンスをやり玉に挙げているんです。宮本が戦時中に中国山地を縦走する旅の途上で出会った、息子を戦地に送り出した母親に対して、批判的にではなく、同情を寄せて描いている。そのことについて藤田は、「消極的大政翼賛だった」と批判しています。 一方で橋川文三は、広島市郊外の向洋(むかいなだ)という対馬移民を数多く輩出した町の出身で、『忘れられた日本人』にも対馬の話が出てきますし、藤田が批判した『村里を行く』についても、中国山地の同じ道をたどりながら、「宮本さんが何度も歩いた道だ」といふうにシンパシーを表明しているんですね。