「孤独のグルメ」ファンの矛盾! 全然“孤独”じゃない聖地巡礼、本当にそれでいいのか?
食事を通じて描く現代の疎外感
この変化は、同じく関川との作品『事件屋稼業』(双葉社)でもよく表れている。作品の連載は1979(昭和54)年から1994(平成6)年と長く続いたが、当初は読者層もあってか、暴力や欲望がむき出しで描かれていた。 それが時代とともに徐々にトーンを抑え、暴力描写が減っていく一方で、社会のレールから外れた人々の生きづらさに焦点を当てるようになった。むしろ静かな作風に転じてからのほうが、社会への批評性は深まっていった。谷口の視点は、表面的な暴力からシステムが生み出す暴力や疎外感へと移っていったのだ。 『孤独のグルメ』も、この流れで読み解くことができる。一見、穏やかな食事エッセーのように見えるが、実は ・サラリーマンの孤独 ・現代社会のなかでの個人の在り方 を鋭く描いている。井之頭五郎が食事をするのは、繁華街から外れた路地裏や下町の小さな店が多い。これは、“主流”から外れた場所への共感を示しており、谷口が若い頃から持っていた視点がそのまま反映されている。 谷口の作風の変化は単なる円熟化ではなく、過激さを抑えつつ、より深い社会批評を表現する手法を獲得していったといえる。 井之頭五郎も、表向きは自由な商売人に見えるが、実際には現代社会の規範から外れた生き方をしている。輸入雑貨商という肩書は聞こえはいいが、実際は安定した収入や保証もなく、その日暮らしの商売人だ。 食事シーンでも、井之頭五郎は決して理想的な人物として描かれていない。 ・注文がかぶったり ・食べ過ぎを後悔したり ・メニューに迷ったり と、むしろ人間らしい弱さを見せている。かっこよさを求めながらもどこか格好悪く、そのギャップが人間の弱さを引き出している。谷口の作画は、この井之頭五郎の姿にぴったりと合っていたのだ。
静かに暴れるキャラクターの魅力
谷口にとって、静かな作風のなかに狂気すら入り交じった情念を持つキャラクターを描くのは得意分野だった。欧州で評価を得るきっかけとなった『歩く人』(講談社)は、主人公が家の周りをただ歩くだけの作品だ。小津安二郎の映画のような静かな雰囲気をまとっているが、主人公はときにはビルのらせん階段を駆け上がり、木に登り、学校のプールに無断で入り泳ぎ出す。 『孤独のグルメ』の後、再び久住とタッグを組み、2003(平成15)年から『通販生活』(カタログハウス)で連載された『散歩もの』では、妻を持つ中年の文具メーカー勤務という、一見疎外感のない主人公が登場する。しかし、この主人公も再開発で変わりゆく街に対して怒りをあらわにし、毒づきながら他人の家の軒先にある井戸を勝手に使い始める場面がある。 そもそも久住も、泉晴紀とコンビで『ガロ』にて漫画家デビューした人物であり、その作品集『かっこいいスキヤキ』(扶桑社)からも社会から逸脱する姿勢が感じ取れる。つまり『孤独のグルメ』は、どんなにあがいても社会の本流には乗れないふたりの作者が見事にシンクロして生まれた作品なのだ。 しかし、発表当時はあまり共感を得られなかった。掲載誌『月刊PANjA』が迷走したあげく短命に終わったことも一因だろう。それが再評価されたのは2000年以降、インターネットの普及にともなって『孤独のグルメ』が 「発見」 され、注目されるようになったからである。