「孤独のグルメ」ファンの矛盾! 全然“孤独”じゃない聖地巡礼、本当にそれでいいのか?
作品の誕生秘話と反骨精神
この連載がどうして生まれたのかについては、『孤独のグルメ』公式サイトでの久住と初代編集担当・壹岐(いき)真也の対談で語られている。 「久住:編集者が突然、家にやって来て「昨今のグルメブームがムカつく」と(笑) 」 さらに久住が詳しく語っているのは、谷口への追悼記事が掲載された『SPA!』2017年4月4日号だ。 「‘94年の連載第1回は、山谷のドヤ街で始めたんだけど、当時は今と違って、山谷なんて若い人は絶対に行かないところだった。当時の流行りのグルメ物にしたくなかったんだね。山本益博さんとか、ミシュラン・ブームの後だから。みんながラーメンとかフランス料理のうんちくを語るようになって、「しゃらくせえ」って気分だった。オレも30代だもん。若かった。それで、アンチグルメにしようと」 山本益博は1982(昭和57)年に『東京・味のグランプリ200』を出版し、日本の食文化に大きな影響を与えた料理評論家だ。この本では、フランスのミシュランガイドのように星による格付けを採用し、当時としては画期的だった。 本の内容は真剣な評価で、星を獲得できなかった店も含めて公平に扱っていた。しかし、この本がきっかけで始まった「グルメブーム」は、料理や食についての理解が浅い人々を増やすという意外な結果を生んでしまう。 山本の著作は日本の食文化に新しい評価基準をもたらしたと評価されるべきだろう。しかし皮肉にも、その影響で表面的な食通ブームが生まれ、「山本益博みたいな人」という言葉が 「食通を気取る軽薄な人物」 をやゆする表現として使われるようになってしまった。
誕生の裏にあった社会批判
バブル経済が崩壊した後の日本では、1980年代の過剰な消費文化や表面的な流行への反発が強まっていた。特に若者の間で「反・流行」の姿勢が知性や批評的な精神の表れとして評価されていた。 グルメブームだけでなく、音楽やファッション、サブカルチャーなど、あらゆる分野で ・通ぶること ・軽薄な流行を追うこと への嫌悪感が広がっていた。この態度は単なる反抗ではなく、バブル時代の価値観への疑問や、もっと本質的なものを求める姿勢の表れでもあったといえる。 記事中で久住が語った「しゃらくせえ」という言葉も、単にひとりの評論家への批判を超え、当時の日本社会全体が抱えていた価値観への批判を象徴していた。このような時代背景があってこそ、『孤独のグルメ』という作品が成立したのである。 また、作画を担当した谷口は、当初この仕事に対して違和感を抱いていたことも重要だ。前出の『SPA!』の記事などでも、谷口自身が、自分が描くべき作品なのか、そもそも面白いのかと、第3話あたりまでは不安を抱えていたと述べている。 今では『孤独のグルメ』のイメージが定着しているが、当時の谷口はむしろハードボイルドな漫画を描くイメージが強かった。デビューから1980年代までは“一流出版社”での仕事はほとんどなく、現在では出身地の鳥取県の公式サイトが 「ヨーロッパで最も人気のある日本人作家の一人」 と称賛しているほどだが、かつての谷口はもっと尖っていた。『週刊プレイボーイ』1982(昭和54)年3月23日号の記事「忘れていたロマンを謳え 青年漫画誌の反乱」では、 「フィリピン生まれの混血児」 「日本へ密航」 といった、プロフィル(本人申告?)が記されている。ちなみに、同記事はかわぐちかいじや大友克洋も掲載している。 その表現手法も時代とともに変わり、初期の情念むき出しのスタイルから、次第に静かで穏やかな作品へと変化していった。関川夏央との『『坊っちゃん』の時代』(双葉社)は、その好例といえるだろう。