男色の平賀源内に「吉原遊郭ガイドブック」の序文を書かせた、蔦屋重三郎の発想力
写真:浅草庵作『画本東都遊』に描かれた耕書堂(国立国会図書館蔵) 2025年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。遊郭・吉原で生まれ育ち、その知識を活かして「吉原ガイドブック」を大ヒットさせた出版界の革命児である。蔦重の発想力と人脈力について、時代小説家の車浮代氏の書籍『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』より紹介する。 【写真】『吉原大通会』に描かれた蔦屋重三郎(手前の左から2人目、国立国会図書館蔵) ※本稿は、車浮代著『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
蔦屋重三郎「吉原ガイドブック」で世に躍り出る
幕府公認とはいえ、「悪所」と呼ばれた吉原で生まれた蔦屋重三郎は、決して出がいいとはいえませんでした。父親は尾張(愛知県西部)出身の丸山重助といい、遊廓で働いていたといわれています。母親は江戸生まれで旧姓は広瀬、名は津与といいますが、こちらも吉原で何の仕事をしていたかはわかっていません。 蔦重の幼名は「柯理」といいます。読み方は「あり」と「からまる」説があり、どちらかは不明です。数え7歳の時に両親が離婚し、2人とも吉原を離れましたが、蔦重はそのまま吉原に残され、仲之町にある引手茶屋「蔦屋」を経営していた喜多川氏の養子となりました。 こうして彼は、「丸山柯理」から「喜多川柯理」へ、そして屋号である蔦屋を継いで「蔦屋重三郎」と名を改めたのです。 1772年、23歳の時に蔦重は、「五十間道(ごじつけんみち)」と呼ばれる吉原大門前の、茶屋(義兄・蔦屋次郎兵衛が経営)の軒先を借りて、「耕書堂(こうしょどう)」という書店兼貸本屋をオープンさせます。ここの主力商品が『吉原細見(よしわらさいけん・吉原遊郭の地図や妓楼、遊女、茶屋、芸者、料金、イベントなどを記したガイドブック)』でした。 当時、吉原における出版物を多く手がけていたのは、鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)が運営する「鶴鱗堂(かくりんどう・鶴林堂とも)」という版元でした。 鱗形屋は1660年前後に大伝馬町に店を構えていた老舗で、絵本や浄瑠璃本などを出していましたが、定期刊行物として出版されていたのが、正月に発行される宝船の木版画と、春と秋(旧暦なので正月と7月)に出される『吉原細見』でした。 この頃の細見はライバル誌がなく、鱗形屋の独占販売だったために売れ行きがよく、鱗形屋は江戸の有力版元となったのです。ところがこの『吉原細見』、年に2回発行しているとはいえ、遊女の出入りの激しさに情報の精査が追いつかず、また購買層のほとんどが初めて吉原に来る客とあって放っておいても売れるため、たいした改訂もせず古いままの情報を掲載し続けた結果、信用はガタ落ち。 実は、大名や大商人が以前ほど羽振りがよくなくなったこの頃の吉原は、各地にできた岡場所(私娼街)に客を取られて潰れる見世(妓楼)もあり、最盛期は3000人以上いた遊女が3分の2にまで減る、という厳しい状況にありました。 情報が古いままだと、目当ての遊女に会いに行っても、いないどころか見世もないというありさまで、これでは売れなくなるのも当然です。 鱗形屋もさすがにこれはまずいと考え、細見の情報を最新版にするため、吉原のことを知り尽くしているうえに、本の知識もある蔦重に「細見改め」、つまりガイドブックの編集長を任せたのです。蔦重が本屋を始めて2年近く経った頃のことでした。 1774年、蔦重が編集長になって初めての『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』が刊行されました。遊女や見世の情報を最新のものにしたのはもちろんのこと、序文を当時浄瑠璃作家として大人気の福内鬼外(ふくちきがい)が書いたことで話題を呼びました。福内鬼外とは、何を隠そう平賀源内の筆名(ペンネーム)です。