男色の平賀源内に「吉原遊郭ガイドブック」の序文を書かせた、蔦屋重三郎の発想力
平賀源内を活用した、蔦重の発想力と人脈力
静電気による発電装置「エレキテル」を図面なしで修理し(その後、見世物にして大儲けしました)、石綿を発明したり、漢方医であったり、西洋の知識を紹介する学者であったりと、さまざまな顔を持つ平賀源内は、現在では「江戸のダ・ヴィンチ」と称されるほどの才能の塊。 多彩な顔を持つ源内ですが、もともとは讃岐国(香川県)の高松藩の武士です。しかし長崎で蘭学を学んでからはその知識を生かし、日本初の物産会の興行をしたり、時には他藩に招かれて鉱山開発の技術指導をしたりすることで、名をあげてゆきました。 一方で戯作者や俳人としても知られ、絵師でもありました。そのため文化の発信地であった吉原へもたびたび訪れており、蔦重は少年の頃から、この天才視されるカリスマの活動を見ていたようです。 さらに蔦重には、源内に憧れたであろう理由がもうひとつあります。それは源内が、錦絵の開発に携わった重要人物だと思われることです。錦絵とは、多色摺り浮世絵版画の当時の呼び名で、それまでせいぜい3色止まりだった木版画を、何色摺り重ねても色がずれず、フルカラーに見せる技術を編み出しました。1765年に行われた絵暦(カレンダー)交換会での出来事です。 この頃、「連」と呼ばれる文化人サークルで、年に一度、連ごとに独自の絵暦を作って交換する会が流行っていました。この交換会で優勝すべく、絵暦の技術革新を依頼されたのが、当時新進気鋭の浮世絵師であった鈴木春信を含む木版画の職人たちで、このプロジェクトに源内が関わっていた可能性が高いと考えられています。 証拠としては、源内の弟子が書き残したメモ書き程度の文章と、絵師の鈴木春信が、源内と同じ町内に住む友人であったという状況が挙げられます。当時発明家として有名だった源内に、春信が声をかけたと考えるのが自然だからです。 これほどの有名人だった源内が、初めて蔦重が編集を手がける『吉原細見』の序文を書いたというだけでも注目の的だったのですが、実は人々が驚いた理由がもうひとつあります。 そのおよそ10年前に『江戸男色細見』という陰間茶屋のガイドブック(陰間とは色を売る男性役者のこと)や、『根南志具佐(ねなしぐさ)』という、今でいうBL小説を書いたことで知られる源内は、バイセクシュアルな男性が多い江戸の町で"生粋のゲイ"でした。 筋金入りの男色家である源内が、女色の殿堂・吉原遊郭ガイドブックの序文を書いたということが世間を「ええっ!?」と驚かせたのです。 「女衒、女を見るに法あり。一に目、二に鼻すじ、三に口......」で始まるこの序文、人買いが女性の何を見て優劣をつけるかが細かく解説されています。気になるのでもう少し先を続けてみましょう。 「四に生え際、肌は固まった脂のように白くなめらかで、歯は瓢の種のように白くきれいに並び......」となり、最後は「どんなに見かけの悪い女でも、引け四つの時刻にあまっている女は一人もいない。そんな器の広いのがお江戸なのだ」で締めくくられています。 結果的にこの序文は、大勢の読者の注目を浴びました。蔦重の見事なマーケティングセンスが生かされた結果です。なお、平賀源内は序文を書いたわずか5年後の1779年に江戸で殺傷事件を起こし、牢獄の中で破傷風にかかり、52歳という若さで亡くなりました。