厳しい締め付けも「ビジネスチャンス」に変えてしまった蔦屋重三郎、「寛政の改革」を跳ねのけた“反骨の生涯”
幕府に洒落本の執筆を禁じられ、意気消沈していた山東京伝を激励し、代わりに(おとなしめの)黄表紙の執筆をすすめて書かせつつ、刊行物の中心を戯作や狂歌絵本から浮世絵へと移した。そして、書物問屋仲間に加盟して専門書・学術書の出版も手掛けるなど、商魂たくましく新事業を手掛けていった。とくに旧知の喜多川歌麿には美人の大首絵(上半身のみの絵)をすすめた。 それまでは、永寿堂の西村屋与八が売り出した、浮世絵師の鳥居清長による全身を描いた美人画が評判であったが、蔦重は歌麿の大首絵(美人画)を刊行することで与八が創った美人画ブームを継承し、歌麿の『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』「寛政(江戸)三美人」などを売り出すことで浮世絵界を牽引した。
ただし、売れっ子となった歌麿は、他の版元からも出版の誘いが多くなり、蔦重のもとを離れることになった。 また、蔦重は育成者(トレーナー)としての顔も持つ。 寛政4(1792)年、山東京伝の家に居候していた武家出身の戯作者・曲亭馬琴を、蔦屋の手代として雇用し次世代の戯作者として育成。馬琴はのちに耕書堂から読本・黄表紙・合巻などを出版し、自立して生計を立てた。 また、蔦重は葛飾北斎に京伝や馬琴作の黄表紙の挿絵を描かせるなど、次世代の浮世絵師として育成した。
蔦重の死後、北斎は耕書堂の看板絵師となる。「耕書堂」の店舗を描いた有名な絵は『画本東都遊(えほんあずまあそび)』に収録されたもので、『富嶽三十六景』は後世に世界的な知名度を誇るようになった。 ■幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせる 寛政6(1794)年、蔦重は、幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせた。 写楽はわずか10カ月の間に「三代目大谷鬼次の江戸兵衛)」「市川鰕蔵の竹村定之進」などの役者絵や相撲絵など145点ほどを残し、忽然とその姿を消している。
写楽の作品は現代でこそ「役者の内面にまで迫っている」などと絶賛されることもあるが、当時は話題にはなってもそれほど人気はなかった。 あくまでも役者絵はファンが買う「ブロマイド」なので、美しくなければ意味がない。誇張しすぎたり、リアルすぎたりすれば客が引く。 写楽の正体は謎だが、山東京伝説や葛飾北斎説、途中で作風が変化することから複数人説、果ては蔦重説まである。 近年の研究では、阿波国徳島藩主・蜂須賀氏お抱えの能役者「斎藤十郎兵衛」説が有力である。
伊藤 賀一 :「スタディサプリ」社会科講師