厳しい締め付けも「ビジネスチャンス」に変えてしまった蔦屋重三郎、「寛政の改革」を跳ねのけた“反骨の生涯”
厳しい政策により幕府の権威を強め、農村復興をはかる理想主義的な改革、これが寛政の改革である。 定信は士風を刷新、文武を奨励し、綱紀の粛正をはかった。厳しい倹約令に、湯屋(銭湯)の混浴禁止など、これまで許されていたことが許されない。窮屈な雰囲気が蔓延し、江戸の街に暮らす下級武士・町人たちの不満が高まっていった。 ■幕府の厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に その頃、日本橋に進出していた蔦重は、これをビジネスチャンスととらえた。幕府の改革を真正面からは批判せず、江戸庶民の心情を代弁した戯作で風刺し、徹底的に茶化すことで爆発的なセールスを記録したのである。
蔦重が版元になった当初から、序文(まえがき)や跋文(あとがき)、遊女評判記などで世話になってきた15歳上の朋誠堂喜三二は、安永9(1780)年以降、耕書堂(こうしょどう/蔦重が開業した版元兼書店)から出版された黄表紙や洒落本のヒットを飛ばしてきた。 蔦重はこのもっとも信頼する戯作者(喜三二)とともに、天明8(1788)年、黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』を刊行し、世に問うた。それは時代設定を鎌倉時代に置き換えているものの、内容は将軍家斉と老中定信の改革を茶化したものだった。
この作品は喜三二の親友で、人気作者・絵師の恋川春町が文武奨励策を題材として、他の版元から出版した黄表紙『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』に比べて、忖度なし、切れ味抜群の問題作であったが、ベストセラーを記録した。 しかし、幕府からの叱責を怖れた外様大名の秋田藩佐竹氏(喜三二の主家)に、喜三二は叱責され、執筆を自粛して戯作者から引退した。以後、喜三二は「手柄岡持(てがらのおかもち)」の名で狂歌師に転じる。
■恋川春町が亡くなり、山東京伝も処罰される 寛政元(1789)年、喜三二の『文武二道万石通』に刺激を受けた恋川春町は、勇み立つ蔦重と黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を刊行した。 内容は定信の教諭書『鸚鵡言(おうむのことば)』のパロディで、「文武両道、文武両道」と小うるさい改革を切り捨て、これまた大評判のベストセラーとなった。 しかし、黄表紙による相次ぐ批判に激怒した定信から絶版処分を受け、さらに恋川春町は江戸城への出頭を命じられた。しかし、彼は病気を理由にこれを辞退すると、譜代大名の主家・小島藩松平氏に迷惑をかけたとして、おそらく自害したようだ(死因には諸説あり)。