厳しい締め付けも「ビジネスチャンス」に変えてしまった蔦屋重三郎、「寛政の改革」を跳ねのけた“反骨の生涯”
一連の動きを見た幕臣の大田南畝(四方赤良)は、身の危険を感じ黄表紙・洒落本・狂歌・狂詩などの文芸活動全般を一時自粛した。 さらに寛政2(1790)年、幕府は8代将軍徳川吉宗が享保7(1722)年に出した出版統制令の増補修正という形で、5月に書物問屋仲間、10月に地本問屋仲間、11月に小売・貸本屋に対して出版統制令を出した。 これにより政治批判や揶揄は許さず、原則として書籍の新規刊行は禁止。刊行する場合は、町奉行所の許可が必要となった。そして、風俗や秩序を乱す好色本は絶版、速報ニュースを扱う瓦版も内容を自粛する方向に入り、切れ味を失った。
しかし、蔦重は懲りない。 当時、すでに山東京伝が3冊の洒落本『仕懸(しかけ)文庫 』『錦之浦』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』の執筆中だった。蔦重は、幕府による出版統制の中でなんとか発売にこぎつけたものの、これが幕府の逆鱗に触れる。黄表紙のような政治批判や揶揄ではなく、洒落本は遊里(遊郭)小説なので「風俗や秩序を乱す」と判断されたのである。 寛政3(1791)年、町奉行所の判決が出て、3冊の洒落本は絶版、作者の山東京伝は手鎖50日(両手首に手鎖をはめ自宅謹慎)、版元の蔦重は身上に応じた重過料(罰金刑)を科せられた。
江戸でもっとも有名な戯作者と地本屋を処罰したことは、「寛政異学の禁(幕府の聖堂学問所で朱子学以外の講義・研究を禁止)」や林子平の処罰とともに、「寛政の改革」の思想統制の厳しさを示す事例として、すべての高校日本史の教科書に掲載されている。 先に触れたとおり、寛政3(1791)年、3冊の洒落本(『仕懸文庫』『錦之浦』『娼妓絹籭』)の作者である山東京伝と版元の蔦屋重三郎、加えて発売可と判断した地本問屋の行司仲間(当番)2名が幕府によって処罰された。
耕書堂を経営する蔦重からすれば、幕府の出版統制によって朋成堂喜三二・恋川春町という武家出身の戯作者ツートップを失ったこともあり、町人出身の人気戯作者である山東京伝の洒落本では、あえて発禁処分ぎりぎりのところを狙ったのである。それは高収益が見込めたからで、危ない橋を渡る価値があった。 ■蔦重の「育成者(トレーナー)」としての顔 蔦重は、ほぼ確信犯であったがゆえに幕府に処罰されても意欲は衰えなかった。